はーちゃんの気晴らし日記

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ハイジの生涯

2011年04月15日 | ハイジ
ハイジは、犬の美容学校の教材犬でした。
美容学校で生まれ、生徒さんのシャンプーやカットの練習のお手伝いをしてきました。
そんな生活を7年近く続けてきたわけです。
生活の大半をケージの中で過ごし、授業の時だけしかケージからは出られませんでした。

我が家へ来てから散歩に連れ出すと、ハイジは田んぼ道の真ん中で伏せてしまって、どんなにリードを引っ張っても歩こうとしませんでした。
あまり外に出たことのなかったハイジは、外の世界が怖かったようです。
それでも毎日外に連れ出すとだんだん歩くようになりましたが、夕方どこかの家で雨戸を閉める音がするとビクッとして歩くのをやめ、車が通るとパニックになりました。
車に乗せてもエンジンの音を怖がり、震えていました。
そんなことに慣れるまでには、数ヶ月かかったように思います。

ハイジが我が家に来てから一月くらい経った頃、私たち夫婦と娘とでクマとハイジを連れて千葉の御宿海岸へ行ったことがあります。
『月の砂漠』の像がある海岸です。
ドライブの途中ハイジは、車やバイクが通るたびにビクビクして落ち着いていられないようでした。
少しずつ私たちとの生活に慣れてきたとはいえ、御宿の海岸では、知らない人に付いて行こうとしたりして、まだまだ私たちとの生活が地に付いていない感じがしました。

我が家に来てから3ヶ月くらい経ったころ、ハイジの卵巣脳腫が見つかりました。
すぐに手術。
そして、その後パテラが発覚。
学校の教材犬だった時は元気に過ごしていたハイジなのに、我が家に来てからそれまで表に出ていなかった身体の故障が一気に出てしまったようです。

ハイジは里親に出される少し前、出産した事があったと聞きました。
4~5匹くらい赤ちゃんを産んだようです。
でも、かわいそうなことに赤ちゃんは全部死んで産まれたそうです。
卵巣脳腫が関係していたのかなと、私は思っています。
その後、肺が悪いのがわかり、心臓、甲状腺、腎臓と次々と病気が発覚しました。

病気がちだったためあまり外出することのないハイジでしたが、私がブログを始めた頃はドッグランに行ったり、抱っこかばんに入りながら散歩に行ったりもしました。
ハイジが来てから2~3年くらい経った頃、ある狭いスペースにハイジを放したことがあります。
すると、ハイジは一目散に私をめがけて走ってきました。
それを何度も何度も繰り返したことが私の良い思い出です。
ハイジが走るなんて、めったにないことでしたから。

ハイジと同時期に里親に出された犬たちの中で、ハイジが一番長生きだったそうです。
それだけ教材犬というのは、ストレスがたまるものなんだろうと思います。
学校で教材犬として働いた期間が6年8ヶ月、我が家で過ごしたのが10年2ヶ月でした。
娘は、
「学校にいるより、我が家で過ごした期間が長くて良かった。」
と言います。
ブログ友のみなさんが、「ハイジは、はーちゃん家に来て良かったね」と言って下さいます。
私も、我が家に来てからは病気が多かったけれど、それなりにのんびり、好きなように過ごせたと思います。

亡くなる10時間位前のハイジです。


この時はまだあちこち歩き回っては、こうして両足を伸ばして、私のバッグに頭をつけてじっとしていました。
まさか、そんなにあっけなく逝ってしまうとは思わず、写真を撮りました。
山梨の先生に「こんな状態なんです」と連絡するつもりでした。


我が家にはまだクマと勘九郎がいます。
奴らも可愛く、愛すべき存在です。
ですが、ハイジの存在は私にとっては特別なものがありました。
いつもハイジは、私の後ばかり付いて歩いていました。
トイレの掃除をすれば近くでウロウロ、お風呂の掃除をすればそばでウロウロしていました。
食いしん坊なのに、全員が食卓について食事を始めても、私が何か用事をしていると、食卓には行かずに私のそばにいました。
私のひざで眠り、布団の中ではべったりくっついて眠っていたハイジがいないのは寂しく、それは勘九郎やクマでは埋められないものがあります。

元気だった頃、朝、目を覚ましたハイジです。
こうして布団に入って眠っていました。
私が布団から出ると隣で主人が眠っていても、私と一緒に起きだしました。
まだ半分寝ぼけている感じです。



これで、ハイジの話は終わりにします。
書きたいことはまだまだあるような気がしますが、書きたい事を書いて、気が済んだ気もします。


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