平成31年2月16日(土)
JR東海主催 さわやかウォーキング
「一級河川豊川改修80年の足跡めぐりウォーキング①」の続きです。
善光寺川から次の目的地へ向かっています。
歩道のない道路は怖いw
鳥居がありました。
どうやら次の目的地に着いたようです。
あれ?
真っ黒w
(ノ・ω・)ノオオオォォォ-
式内社だった@@
参道でしょうか?
空地のようなところを進んでいきます。
(*'ω'*)......ん?
ここですね。。
「菟足(うたり)神社」です。
お詣りしていきます。
手水舎
柄杓の柄が長いw
何か意味があるのかな?
御祭神は、菟上足尼命(ウナカミスクネノミコト)
どういう神様だろうか?
第八代孝元天皇の御裔、葛城襲津彦命四世の御孫にあたり第二十一代雄略天皇の御世に穂の国(現在の東三河地方)の国造に任ぜられた方です。
襲津彦命は、第十六代仁徳天皇の皇后磐之姫命の父君にあたられ大和葛城地方の豪族としてさらには大和朝廷の将軍として大きな力を揮っておられました。
菟上足尼命は、こうした名門の出として、又一方顕著な殖産、治民の功によって没後、平井の柏木浜に大神として奉納され、さらに第四十代天武天皇の
白鳳十五年四月十一日に、神の御誨のままに秦石勝により現在の地に遷し祀られました。
平安初期貞観六年(八六四)には神階は従五位下に進み、祈年祭、新嘗祭には国幣の供進に預かり皇室の崇敬深く、延喜五年(九〇五)に編纂が始められた
「延喜式」神名帳に登載されている由緒ある神社でもあります。
徳川幕府になり、家康公も親しく参拝され神領(九十五石、制札寄進)を寄せられる領主藩主等の崇敬厚いものがありました。
明治維新の初め天皇御東行の際には勅使による御参向を賜っております。また明治十一年(一八七八)には有栖川宮熾仁親王御染筆にかかる
「式内 菟足神社」の社号軸を頂いております。
さらに大正七年(一九一八)には郷社から昇格し県社に列せられることとなりました。 《菟足神社 志留倍(しらべ)より》
大変由緒ある神社です。
この菟上足尼命という神様。
兎(うさぎ)という漢字に草冠が付いて、菟と書かれていますね。
昔、国語学者の先生に聞いたのですが、
兎は草冠がないので、「根無し草」という意味で、定住しない人々、移動しながら生活する人々の意味だったと思います。
この神様の菟は草冠があるので、定住したという意味になるのかな?
穂の国の国造としてこの地で根をおろした方だったかと思います。
他に変遷がなければですが。。
似たような名前で、菟上王とか兎上命がありますが、全然別の神様ですね。
他にも。。。
徐福伝説(中国始皇帝の命を受け、不老長寿の薬を求めて東方諸国をめぐり、日本や朝鮮半島に伝承を残す)など。
拝殿内にあった大きなうさぎのお神輿です。
屋根だけ見える本殿。
宝物庫かな?
うさぎ^-^
この神社の神紋かしら?
確か拝殿のお賽銭箱にもこれあったようなw
一見可愛らしい神紋ですが、古代から生贄があったそうですからねぇ。
若い娘が生贄にされたり、猪が生贄にされていた伝説があます。
今でもスズメが12羽生贄にさる神事が行われているそうです。
自然災害を鎮めるために人柱を供えるなど、人を生贄にする考えはどうして起こったのだろうか。
畏敬の念や記紀神話にも似たような話が出てきますし、
徐福伝説からは、中国の悪習慣が伝わったとされる話も聞いたことがあります。
これは真実かどうかわかりませんが、今の外国人受け入れ制度は考えさせられますね。
御世も雄略天皇の時代。
その悪政っぷりからも何となくですが、どんな世の中だったか想像してまいます。
(-ω-;)ウーン
人は見かけによらずと言いますが、神様も弱そうに見えて、本当は強烈に強かったりするのです。
昔、アイヌの人にも聞いたことありますが、ウサギの呪いが一番強烈で恐ろしいと聞きました。
ウサギ。
可愛いけど、とっても怖い存在です。
赤ずきんとしては。
スタンプラリーに並ぶ人々。
赤ずきん。
スタンプラリーはいらないけど、神社のしおりが欲しくって並ぶことにw
15分くらい待ってやっと貰えました^-^
菟足神社 しらべ
この神社の神様とご縁ができたということは、必ずそこに意味があって学びを得よということですからね。
その意味をこれから注意深く察知したいと思います。
コースへ戻ります。
真っ直ぐ歩いていると、赤い鳥居が見えてきました。
(ノ´▽`)ノオオオオッ♪
立派な鳥居ですね。
ここもお詣りしていきます。
本殿はどこかなぁ?
(*'ω'*)......ん?
元々は古墳だったのかな?
こっちだ。
お稲荷さん?
ですか?
立派な鳥居。
正一位だった
拝殿です。
お詣りしまっす。
御祭神は、ウカノミタマノカミ、ウカノヒメノカミ、ワクムスビノカミ、オオミヤノメノカミ、ヤフネノカミ。
御由緒
ここ白狐ヶ丘は弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地として知られており五社稲荷社は明歴年間(一六五六年頃)にこの遺跡の中央前方部大古墳上に
この古墳の尊厳を守り五穀豊穣を祈るため「保食神」を斎祀したのが始まりと伝えられております。
百年ほど後の延享四年(一七四七年)御本殿の造替の御札には「稲荷五社大明神」とあり、その以前より五柱の神々を斎祀したものと推測されますが、
古文書から見ますと伏見稲荷大社から文政十三年二月(一八三〇年)正式勘請し五社稲荷社と称され今日に至っております。
当時の神社の様子は「参河国名所図絵」に描かれており境内は今の様子とほぼ同じことがうかがえます。
又、ここの古墳は前方後円墳と云われております。周辺部が損壊されているので確認は困難ですが東三河地方第一の規模を持つもので
造成期は五世紀末から六世紀初めと伝えられ当古墳の西方二〇〇米に鎮座する白鳳一五年(六八六年)創建の古社菟足神社の御祭神である大和葛城の豪族葛城襲津彦命の裔、
菟上足尼命の墳墓と推定されています。
この命、第二十一代雄略天皇の朝「穂の国」の国造として当地に派遣されてその治績高く治民の功大なるものがありました。(三河国 白狐ヶ丘 五社稲荷社 略記より)
宇賀能御魂神(ウカノミタマノカミ)は、京都 伏見の伏見稲荷大社の御祭神と同じです。
穀物を司る神様です。
五穀豊穣の神様です。
大変位の高い神様で、眷属として狐を太陽神直々に与えられました。
狐を稲荷と呼ぶ理由だと赤ずきんは想像してます。
この眷属の狐がまた泣けるくらい従順で良く働くのだそうです。
願い事が良く叶えられるということで、人々から大人気のお稲荷さん。
正一位は頷けます。
神様のことについてはいろいろ書きたくなってしまいますが、切りがないのでこの辺で。。。
コースへ戻って、次の目的地へ歩いていきます。
大きな鳥居です。
なんだかとっても新しいw
鳥居から続く道を真っ直ぐ歩いていきます。
(*'ω'*)......ん?
何やら堤防のような塀のようなものが見えてきました。
あ!
やっぱり堤防だったw
この階段をあがります。
堤防を越えて、階段を下りていきます。
きゃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ・・・・・
これ、どこまで続いてるのん?
地図で確かめる赤ずきんw
何と!
五社稲荷社から次の目的地まで3.5キロw
しばらくこの川沿いの道を歩くことになりそうですw
だいぶ長くなってしまいましたので、続きは又にします。。。