赤ずきんのお散歩ブログ

参加したウォーキング、写真付きでご紹介します。よろしくお願いします。@^-^@ノ

四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!⑦ ゴール

2019年03月09日 00時00分01秒 | 近鉄ウォーキング

平成31年3月2日(土)

近畿日本鉄道主催  きんてつハイキング

四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!⑥」の続きです。

 

コースは、またまた住宅街へ突入していきます。

 

ちょこっと路地を見てみると。。。

道の真ん中に、なにやら見慣れぬ物体がありますね。

 

ぬこが道を塞ぐように寝そべってるw

もしかして小豆ちゃん?

 

道を振り返って撮ってみました。

あれ?

あそこに何かの表示がありますね。

 

東海道。

この道は東海道なのですね。

 

花咲いてる@@

黄梅だと思います。

 

コースは、あの山へ続いているみたいです。

行ってみます。。

 

(○'ω'○)ん?

どうやら立ち寄りポイントに着いたようです。

 

うつべ町かど博物館」です。

普段は12時までの開館だったところを、ウォーキングのために14時まで開館されていました。

ありがとうございます。

フッと時計を見ると、14時3分w

Σ( ̄口 ̄*)はうっ!

過ぎてる。

関係者の方々に聞いてみると、見て行ってくださいとのことなので、入らせてもらうことに。

またまたありがとうございます。

 

おじゃましまぁ~す。

 

一般の古民家を借り上げて、さらに展示されている品々も一般の方々の提供によるものだそうです。

うつべをじっくり見させていただきます。

 

正面に立派な雛壇がありました。

 

このお雛さまも一般の方が提供されたものだそうです。

 

東海道五十三次。

∑(゚∇゚|||)はぁうっ!

永谷園のおまけのだったw

確かお茶漬けのだったようなw

ひや~懐かしい^-^

 

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ガラスケース内の資料など。

弘法大師御和讃など明治期の書物がずらりと並んでいます。

 

采女の史跡・・・杖衝坂

なんか見所いっぱいありますねぇ~

 

日本武尊にまつわる、この地方の史跡と「采女の杖衝坂」

采女は日本武尊伝説の地でもあります。

ここは4番目ですね。①~⑦で赤ずきんは③だけ行ってないなぁ。

あれはどこになるのだろう?

調べて今度行ってみよっと。

 

なんかいろいろ古い感じの道具が展示されていました。

 

他にも土器とか地元のちびっこの作品などが展示されていました。

ありがとうございました。

 

コースへ戻ってすぐ、急な坂道になりました。

 

東海道の難所ですね、この坂は。

 

あ!

史跡 「杖衝坂」へやってきました。

日本武尊と松尾芭蕉の伝説が残る地です。

そして、さらに三重という地名の由来の地でもあるのでした。

 

采女杖衝坂

杖突坂は、「杖衝坂」(「三国地誌」)とも書きますが、「伊勢名勝志」三重郡の山川の項に「杖突坂 采女村ニアリ官道ニ属ス、伝ヘ云フ倭武尊東征ノ時、桑名郡尾津村ヨリ

能褒野ニ倒ルノ時、剣ヲ杖ツキ此坂ヲ踰エ玉フ故ニ名ヅク(以下略)」と記述されており、「勢陽五鈴遺響」にも同様の説明があります。いわゆる日本武尊伝説地の一つです。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト、「古事記」では、倭建命と書く)は、実在の人物ではなく、

大和朝廷が勢力を西や東に延ばしていったときの多くの勇者の話を一つにまとめた英雄伝説であると言われていますが、三重県では地名由来の説話として関係しています。

日本武尊が幾多の苦難の末に東国を平定し、帰途につきましたが、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受け、病にとりつかれてしまいます。

そこで、大和に帰る為、伊勢国に入り三重郡采女村あたりまで来たとき、急坂を杖をついてようやく登れたので、その坂を「杖衝坂」と言ったということです。

さらに、少し進んだとき、「吾が足三重の勾なして、いたく疲れたり」と言い、その地を「三重」と言うようになったとも伝えられています。三重郡の由来です。

そして能褒野(のぼの)のたどり着いたところで亡くなったので御陵をつくると、日本武尊は、大きな白鳥と化して、大和をめざして飛び去っていったというお話です。

この杖突坂は、内部川より約0.5キロメートル南にあって坂の上までの距離約100メートル、比高約20メートル強の東海道の道筋の中でも急坂となっています。

大正の末期頃、この坂を自動車が登り切れないので、坂の下の民家の牛の力を借りて登ったというエピソードも残されています。

また、この急坂を登りつめたところに、日本武尊伝説地の一つである御血塚の祠があり、前記の「伊勢名勝地」の同じ項に「(前略)側ニ血塚アリ尊ノ足ヲリ出デシ血ヲ

封ゼシ処ナリト云フ」と記述しています。

この坂は、自動車をはじめ歩行者にも難所であったので、昭和の初期頃、丘陵の北側の中腹にゆるやかな坂道を新設し、これを「昭和坂」と称して利用しました。

現在の国道一号線が走っているところです。(うつべ町かど博物館 資料より)

 

 

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芭蕉句碑」と井戸跡。

 

郷土こぼればなし

杖衝坂紀行

追分の大鳥居を右にとって、近鉄の踏切を渡り小古曽の町を通り抜け、内部橋を渡って旧東海道に入ると采女の町である。

永田邸の角を左に折れると杖衝坂が見えてくる。永辻屋酒店と書いた店の前を通り過ぎるころから家並みがゆるやかな坂道となり、少し行くと金毘羅宮のお堂につき当たる。

これを左にとって、右にカーブするところから道は次第に急坂となり、石畳を敷きつめた坂道を一歩一歩踏みしめながら数十米登ると、やがて視察は広くなり、

坂の中腹にかかる左側に四本柱の矢形に納められた碑が建てられている。

この碑の正面には、「芭蕉翁、歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」と変体かなで刻まれてあり、この碑の側面より裏面にかけては、次のような意味のことが記されている。

「歩いて登れば、こんなしくじりはしなかったものを、庶民(芭蕉自身)の身でありながら、

おこがましくも馬にのったばかりに急な坂にさしかかって荷鞍が打返り落馬してしまった。

この坂は、遠い昔、景行天皇の皇子日本武尊が、重病をおして都へ帰りたい一心から、腰の剣を杖にして、わが足三重にも曲がるほど疲れたといわれながらも、

あえぎあえぎ登られた坂であったのだ。ああもったいないことをした。歩いて登れば良かったのに・・・。

”徒行ならば”の五文字に自己を反省し、自己を罪する気持が、わが大道、則ち巨子の道であったのだ。」

謹皇の志の厚かった白梵庵門人、村田鵤州は心の杖の道しるべとして、芭蕉の句の意を解し、宅暦六年に碑文を残していったのだろう。

鵤州の身分は不詳である。師の自梵庵は榎本馬州(名古屋の人)といい徳川中期の俳人で、俳文は風格があり横井也有の先駆をなすものといわれる。

 

碑の傍に、戦前まで二本の亭々と雲間に届く程の老松があって荒涼とした坂道に一抹の風情を添えていた。冬ともなると松の梢をゆさぶる風の音と、

沿道の竹藪のざわめきとが相俟って不気味な音をたて、時折、ほうほうと鳴くフクロウの声がまじり、付近の子供を脅かしていたと聞いている。

往年この地を通った橘守部がこの松籟を「もみじ葉はみな散り果てて杖つきの松にこたふる木枯らしの風」と詠んでいる。

また、その下には、四季を通して湧き出る二本の深井戸が残っていた。往時、東海道を上り下りする多くの旅人の渇きをいやし、近所の家々では朝夕この井水を求めて、

前後に二個の水桶を肩に担って、急坂を登りくだりする風景を子供ごころに覚えている。

杖衝坂は、古書にも多く記されている。

万治三年ごろ刊行の浅井了意著着「東海道名所記」に、杖衝村、つえつき坂、爰に饅頭あり、風味よし。」とあり、元禄十年版の「国花万葉記」菊本賀保着にも、

「杖つき村坂あり饅頭を売也」とあって、杖つき饅頭が古来から名産として紹介されている。

「東海道名所記」東洋文庫版(平凡社)の校注者朝倉治彦氏によると、「杖衝村、こういう村は正式にはない。采女町地内。入り口に一里塚、坂上に立場があった・・・。

饅頭、立場の茶屋で売っていた。」と記している。

 

昭和二十六年ごろ旧四日市市史編纂室が取材した記録によると、杖つき饅頭のことが詳細に書かれている。

坂を登りつめ、平坦になった高地のすぐ左側のところに昔の面影を残す平屋建ての家があった。

杖つき饅頭をひさいでいた乕屋(とらや)で主人は采女一四九番屋敷の須藤寅一(当時七十三歳)さんという。以下は盛時のときの話である。

「毎月八日特に正月八日と四月八日は加佐登祭で賑わい、商売も忙しかった。しかし、いくら一生懸命に働いても当時の金で八円の収入であった。

はじめは一銭に饅頭七ツであったが、五ツになった。いわゆる二厘饅頭である。

酒饅頭で餡はコシアン、色は白、皮が厚いのでセイロでむして出していたので、蓋とり饅頭の名もあった。

小豆一升五合に砂糖三百から四百匁(約1.5キロ)入れたので頗る甘く、特に私の家は麹から造って十分ねっていたので皮も柔らかいのが特徴であった。

この他白糸という饅頭も売っていた。長方形のもので川は米粉で作られ、横に長く五色の線を書き、これを糸で切ってたべるもので糸切饅頭ともいった。

明治二十五年か三十年ごろ廃業したが杖つきには東から西へ、乕屋・松屋・大黒屋・扇屋などの饅頭を作る店があって、扇屋・松屋は遅くまで商売をしていた。」

とのことである。

こんな饅頭余話もあったのかと、杖衝坂の頂上に立って、昔の面影をしのんでいた。(うつべ町かど博物館 資料より)

 

ここからさらに上へと坂は続きます。

 

血塚社」です。

おどろおどろしい名前の社ですね。

伊吹山の神との戦いで傷ついた日本武尊が帰途の折、険しい杖衝坂を登り、足が破れて出た血を洗浄したところと言われています。

 

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祠の周りには、乱雑に積まれた石が。。

日本武尊の血で染まった石を集めて葬ったと伝えられています。。

見た感じ、綺麗にされていました。

新しいような気もします。

 

石垣の上に建てられた血塚社。

良く今まで残っていましたね。

 

ここでコースは折り返しになります。

この先には行きませんでしたが、昔は饅頭屋さんが並んでいたそうです。

今は面影はありませんね。

 

もと来た道へ。。

 

今度は下り坂。

当然ですがw

 

景色はとっても良いです。

 

坂を下りて、またまた住宅街へ。

この道も旧東海道。

 

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道沿いには、お地蔵さまや霊園?w

 

道路に出ました。

この道路沿いに歩道を歩いていきます。

しかし誰もいないw

 

采女橋を渡ります。

 

あの左側の歩道のトンネルは、こっちへ来る時に潜ったトンネルです。

帰りは右へ曲がっていきます。

 

内部川沿いの道へやってきました。

 

また橋を渡ります。

内部橋です。

 

この歩道橋を渡っていきます。

もうすぐゴールの駅です。

 

内部の町。

いっぱい思い出ありがとう~~~。

 

歩道橋からは、駅に停車している電車が見えてきました。

 

ゴール、キタ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━━!!

(^ー^)お疲れ様でしたぁ~♪

 

帰りの駅「内部駅」です。

 

 

帰りに乗る電車。

四日市あすなろう鉄道。

ちっちゃい電車です。

 

今回のコースは、三重県四日市の街を歩きました。

14キロの道のりは長かったですが、季節の花や歴史にも触れることができ、大変充実したコースでした。

 

街の人も優しい。

みなさん元気に挨拶してくれました。

道も親切に教えてくれたし。

振舞われた味の染みたダイコン、美味しかったです^-^

 

そして、ヤマトタケルと芭蕉の伝承の残る場所。

歴史の舞台にタイムスリップした感じは、その場所に行かないと味わえない雰囲気があります。

また来てみたい。

そう思うところでした。

 

長々とご覧いただき、ありがとうございました。

コメント (2)
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