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江戸城(皇居)に天守閣がない理由

2024年06月24日 | 沈思黙考

東京に住んでいたり働いていたりする人よりも、観光などで訪れた人の方が、素朴な疑問として感じるのかもしれない。
「大阪、名古屋、姫路…、立派なお城はいくつもあるのに、肝心の江戸城(あるいは皇居)に天守閣がないなんて」と。筆者も若かりし頃、ボンヤリとそう思っていた。
なぜ江戸城に天守閣が残っていないのか。これをきちんと説明することができ、さらに令和のいまにアナロジーをとって発言・行動できる国会議員、あるいは都知事選候補者はどれだけいるだろうか。

INDEX

  • なぜ江戸城に天守閣がないのか
  • 保科正之とはだれか
  • 天守閣がないことを誇る
  • 関連リンク

なぜ江戸城に天守閣がないのか

じつは「江戸城」は、徳川家康が豊臣秀吉に命令されて、うらさびしい湿地帯が広がる関東へ「異動」させられる、ずっと前から存在していた。
戦国時代の華々しい舞台となるようなところではなかった関東・武蔵野の地域に作られたそれは、現代人がイメージするような城などではなく、軍事拠点あるいは、せいぜい砦(とりで)と呼んだ方が正確であった。

東京観光で有名な「はとバス」のツアーで都心をめぐると、当然ながら皇居や江戸城の話が持ち出される。そして「太田道灌(おおた・どうかん)」なる人物が紹介され、さらに「しばし、待つとしよう」を「芝と松にしよう」と聞き違え、現在の皇居外苑が芝と松になった、などという話が披露されたりする。

しかし太田道灌が江戸城を作り始めたのは1456年。翌年の春には完成しているが、家康が入城する1590年までには、まだ130年以上もある。
その家康が入城後、江戸城は長い期間にわたって増改築を続け、現在あるような、あるいは時代劇に出てくるような江戸城になっていく。

ただしその期間において、江戸城だけでなく江戸の町全体に重大な出来事が起こる。日本史上最大級の火災、「明暦の大火」である。
3代将軍・家光が亡くなり、4代将軍となった息子がまだ10代後半というこの頃、江戸の町が3日間にわたって燃え続け、約10万8千人が焼死するという悲惨な出来事であった。

この大火で江戸城は、大奥を含む本丸、二の丸、そして五層五階地下一階の天守閣をも焼失する。ちなみにこのとき焼け落ちた天守閣は、3代目の天守である。
初代天守は家康がつくったもの、2代目天守は2代将軍・秀忠がつくったもの、そして3代目天守は3代将軍・家光が、父である先代がつくった天守をわざわざ取り壊し、同じ場所へ新築したものである。

天守はその地域の高いところから周囲を見渡せるという機能を持っているが、それ以上に、現代のような高層建築など存在しない時代において、かなりの遠方からも視認できる天守閣は、権力者の威信を見せつけるための重要なアイコンでもあった。誰に見せつけるかと言えば、朝廷であり、武家であり、庶民である。
その天守閣が焼け落ちるということは、権力者にとっては精神の崩壊にも近いものがあったかもしれない。

明暦の大火のあと、幕府によってただちに復興が始まる。半分以上が焦土と化した江戸の町には、焼け出された多くの人々が路頭に迷っている。

このとき江戸復興を推し進めたのが保科正之(ほしな・まさゆき)という人物である。彼は、焼け落ちた天守の再建について話し合う幕議において、
「天守とは、そもそも織田信長が自分の威信を見せつけるために作ったものが始まりで、遠くを眺めるだけの機能しかない。いまは、そんな天守の再建に官費を使っている場合ではない。いまなすべきは、まず人々を救うことである」と述べ、将軍もこれに同意する。

そうして町人に対しては江戸市中6カ所で実施される粥の炊き出しのために、幕府の米を約1万5千俵(約900トン)供出させ、また救済金として約16万両(約300億円超、返済義務なし)を支出させる(そば一杯を16文およそ500円として計算)。

この大規模な救済策については幕府内でも反発の声が上がるが、保科正之は「幕府の金はこういう時にこそ使うもの」と相手にしなかったという。
また、食料や資金の支援だけでなく、数多くの犠牲者を弔うために、隅田川の東岸に「万人塚」を造り、丁重に供養する。

ちなみにこの「万人塚」は、やがて回向院(えこういん)という寺に引き継がれ、令和のいま、国技館からほど近い両国二丁目交差点に、その山門(入口)がある。

保科正之とはだれか

保科正之は幕府内において相当な発言力を持っていたようだが、じつは老中などではないし、徳川御三家の人間でもない。そういう文脈で言えば会津藩の藩主に過ぎない。
ではなぜ、そんな人物が幕政に関与したり、ましてや将軍に進言したりできたのか。
じつは保科正之は、3代将軍・徳川家光の異母弟である。ただし、「なんだ、身内びいきかよ」と単純に理解してはならない。

明暦の大火のとき、将軍はまだ10代後半の家綱である。
その父で3代将軍の徳川家光が亡くなって、もうすぐ6年になろうかという矢先の大火災だったわけだが、この3代将軍・徳川家光の母である江(ごう)は、夫である2代将軍・秀忠が側室を持ったりするようなことは絶対に許さないという、当時としては大変キビシイ女性であった。

ちなみに江は、あの秀吉に嫁いで淀殿とよばれた茶々の妹である(2011年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」では、上野樹里が演じていた)。
この女性は、時期や状況で様々な呼ばれ方をするため、資料をあたるとき、素人には骨が折れる。そこで本稿では「江」で統一する。

さて、恐妻家の2代将軍・秀忠は、外にもうけた子のことを公表できない。つまり保科正之は、将軍のご落胤(父親に認知されない庶子)で、公式には認められることがないという状態のままだった。父・秀忠としては、わだかまりのようなものがあったかもしれないが、ある程度の手当てをしたあとは、もう忘れなければならないことであった。
1632年、2代将軍・秀忠は死去する。外に出来た子の存在は最後まで公表せず、息子で3代将軍となる家光にも話さなかったという。

そうして3代将軍となった家光は、ある偶然の出来事によって、自分には異母弟がいるということを知る。
その異母弟は、信州高遠藩(たかとおはん)の保科家というところに養子に引き取られており、高遠3万石の小大名として、真面目に勤めていることを知る。
家光は、自分のそばに異母弟・保科正之を呼び、あらためてその人品、哲学に感じ入り、最終的には会津藩主の地位を与えるのである。

ちなみにこの時期の会津藩(親藩/会津松平家・保科家)は、徳川御三家に次ぐ、ナンバー4の藩と言っていい。
保科正之が賜わった会津藩の石高は「23万石、プラス預かり5万石」というもので、つまり合計で28万石の大大名にのし上がるのである。
しかも、「会津松平家譜」という会津藩の記録史料を見ると、その石高は実質的に30万5千石にものぼっている。
それなのに会津藩は、「ウチは23万石、プラス預かり5万石」と言い続けた。これは、御三家のひとつ水戸藩の当時の石高が25万石だったことに配慮してのことらしい。
つまり3代将軍・家光は、会津保科家に対して、実質的には御三家の水戸藩を超える石高を与えているわけで、家光の保科正之に対する期待が明確に読み取れるのである。

3代将軍・家光は自身の臨終に際し、保科正之を枕元に呼び、息子で4代将軍となる、当時11歳の家綱をしっかりサポートするよう厳命していた。

天守閣がないことを誇る

令和の現在、旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部は一般公開されている。そして天守閣の台座となる天守台だけが残っているところを見学することが出来る。
ここで我々は、天守閣がなくてガッカリするのではなく、権力者の象徴のために金を注ぎ込むことを拒み、生活に窮する庶民を救うことを優先した、保科正之の政治哲学を見るべきだろう。

いったい政治とは、何のために行われるものなのか。それは人々の生活の安寧のために行われるものである。決して権力者の実績づくりや、影響力の最大化を目的に行われるものではない。

先般、政治資金規正法の論議で国会は騒いでいたが、国民としては今回もまた、与野党を含めての「国会芝居」に付き合わされたような虚しさが残る。
いまや議員たちの互助会のようになった国会。これを正常に機能させるためには何をすべきか、我々有権者こそが真剣に考えねばならない。

ただし、そうだからといって一部の人々が策動しているような「動機が正しければ何をやってもOK」という誤った考え方に短絡してはならない。そういった発想は、昭和のはじめにあったように、国家的大失敗につながってしまうということを、我々は学んでいるはずだ。

日本は、人口比でアメリカの3倍以上もの中央議会議員(国会議員)を養っている。
アメリカは3.33億人の国民に対し上下両院で535名、日本は1.25億人の国民が衆参あわせて713名も立てている。そうして彼ら一人あたり毎年2億円のコストをかけている(政党助成金などを含めた概算)。人口減少社会であるにもかかわらず、定数削減について議論を避けているのは、いったい誰なのであろうか。
二院制の意味もわからなくはないが、参議院は47都道府県ごとに各2名でいいのではないか。そのうち1名は都道府県知事が兼任するという手もある。

議員という仕事は、いつまでたってもオイシイものであるからこそ、なんとしても孫子(まごこ)の代にまで引き継がせてやりたい仕事となっている。
しかし本来、政治とは儲かる仕事であってはならないのではないか。儲からないにもかかわらず、それでも志を持って立ち上ろうとする、そういう人物をこそ政界へ送り出し、支えていくのが、民主主義社会における正常なありようではないだろうか。

定数削減にしろ、政治資金規正法にしろ、自分たちの首を絞めるようなことが、互助会と化した国会議員たちに実行できるものなのか疑わしい。これまで何十年間も掲げられてきた政治改革は、ほとんど進歩していない、といっても過言でない気がする。

天守閣のない江戸城。
我々は、これを民主主義社会の国民として誇るべきではないかと思う。そして「なぜ江戸城に天守閣がないのか」を誇りをもって(たとえば訪日外国人に)説明できる日本人でありたい。

1月1日の能登半島地震から半年も経って、ようやく行方不明者の捜索を開始することができたという地域さえあるこの夏、万博会場のパビリオン群が、あらゆる面で生活に困窮している人々を切り捨てた、愚かな天守閣に見えて仕方がない。

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2 コメント

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Unknown (コージー大阪)
2024-06-25 12:56:08
はじめまして♪

江戸城に天守閣の無い大体の背景は知っていましたが、分かり易く,楽しい文章を読ませて戴きました。

当時の支配者層の武士は、志しが高い人が割と居られますね。
バイクで彼方此方に行くのが趣味ですが、残されて居る石碑等から、彼らが多くの働きをした痕跡を見掛けるので感心しています。
松平定信が北摂の山間部の今で言う文化財の保護に関与して居た事を知った時は驚きました。
賛否は兎も角,改革に忙しかった筈!
こんな事に迄,配慮を払っていたら、無茶苦茶に激務だっただろうなと思います 。
幕末に過労死した人が出ている理由がよくわかります。

奴隷を多数扱い、侵略戦争ばかりしていた ローマですら、選ばれた執政官代理等(政治家)は自分が最前線に出なければならず、無能だと戦死します。
戦争に賛同した政治家は是非とも最前線で戦って欲しいモノです(笑)
ノブレス・オブリージュ
の精神を発揮して、自分が高齢なら自分の息子を最前線に送るべきですね~

大体、戦いだ❗とか安易に言う人間は、自分は後ろで騒ぐだけ┐(´д`)┌ヤレヤレ

と私も最後はボヤキでした(笑)
返信する
Unknown (花馬 米)
2024-06-26 17:16:25
>コージー大阪 さんへ
>はじめまして♪... への返信

コメントありがとうございます。
バイクで各地を巡ることが出来るなんて、うらやましい限りです。

おっしゃるとおり、「さぁ戦いだ!」と扇動する人物が、ほぼ必ず自分は安全圏にいながらマヌケな指示を出す、ということは、近代史を学んだ日本人なら知っているはずですね。

現在の中高年から団塊世代あたりの弱点は、近現代史をきちんと学ぶ機会を与えられず、それゆえに戦後の総括も、思考することも出来ないまま、ただ経済活動にしか意識を向けられないという点だと考えています。
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