昭和20年(1945年)9月、昭和天皇(以下「天皇」)は、現在のアメリカ大使館となる場所へ出向き、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと初めて対面、会談した。しかしその時の内容は、日本側とアメリカ側で記録が微妙に異なっており、令和の現在も議論が続いている。一番のポイントは「責任」という言葉を天皇が発したのかどうかということだ。
「真実は必ずこうであるはずだ(こうあるべきだ)」などという決めつけや願望ではなく、考え始めるためのヒント、きっかけとなれば幸いである。
INDEX
- 終戦時の大きな流れを整理
- 天皇とマッカーサーの極秘会談
- 外交官・奥村勝蔵の意訳
- 言語と世界観
- 使命としての意訳
- 関連リンク
終戦時の大きな流れを整理
ある歴史の期間を切り出すとき、いったいどこから始めるか、そして何を取り上げるか(何を割愛するか)は大いに悩むところだ。ここでは「玉音放送」から始め、筆者のセンスで出来事を取り上げることにする。
昭和20年8月15日正午、ラジオにより玉音放送(ぎょくおんほうそう:当時は到底考えられない天皇の声による国民向けの放送)。
ポツダム宣言(英・米・中国の連名で日本に無条件降伏を迫る内容)を受け入れることを、天皇自ら国民に向けて宣言したことになるが、国際法的には意味を持たない日とされる。
この同じ日、米トルーマン大統領は、マニラにいた太平洋方面陸軍司令官のダグラス・マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命。マッカーサーが日本占領に関する最高責任者となる。
8月30日、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、2時間かけて横浜へ移動。終戦直後の混乱の中だったが、無事に「ホテルニューグランド」に到着。
9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリにおいて、重光葵(しげみつ・まもる)外相が降伏文書に調印。国際法上の休戦協定とされる。これによって日本の降伏が確認され、ポツダム宣言の受諾が外交文書上確定。
9月8日、連合軍が東京に進駐。マッカーサーは厚木に降り立ってから約1週間、横浜で様子を見ていたということになる。
9月11日、東條英機元首相が自殺を図る。しかし横浜のアメリカ第8軍の病院で最新の医療を受け、奇跡的に一命をとりとめる。
9月19日、GHQが日本の報道機関に対し「プレスコード」を示す。報道の客観性をうたう一方で、占領政策の批判については許さないという、矛盾を含んだもの。GHQによる事実上の言論統制であり、報道各社は原子爆弾の悲惨さを報じることが出来なかった。
※ GHQ=連合国軍総司令部が東京に正式に開設されるのはこの年の10月2日。
9月20日、一昨日就任したばかりの吉田茂外務大臣が、「天皇・マッカーサー会談」をGHQに打診。
同日、吉田外相と入れ替わるように藤田尚徳(ひさのり)侍従長がマッカーサーを訪ねている。このとき藤田侍従長は「(吉田外相が)来客中である」として待たされている。つまり天皇の名代が待たされたことになる。
これら二人の訪問により、「天皇・マッカーサー会談」が行われることに。
9月25日、初の復員船が南洋の島、メレヨン島(ウォレアイ島)から別府港に到着(下船は26日)。激しい飢餓状態にあったこの島からは、日本兵約6,500人のうち1,626人がこの船で生還。約4,500人は現地で餓死、または病死している。
日本は660万人を海外に派兵していた(若干の民間人を含む)。そして最終の復員は、昭和22年の終わり頃までかかっている。
しかし、現地の法律によって拘束されたり処刑されたりする者もいた。特にソ連のシベリア抑留者たちは、ソ連の国内法によって裁かれ、現地で刑を受け、最終的には昭和31年になってようやく祖国の土を踏むことになる。もちろん数多くの人が現地で亡くなっている。一言で「復員」といっても、単純なものではない。
9月27日、天皇・マッカーサー極秘会談。
会談は公に行われたのではない。極秘に行うことが、前もって日米間で申し合わせされていた。
そして天皇とマッカーサーの会談は、このあと昭和26年の春にマッカーサーが日本を離れる際まで11回に及んでいる。
天皇とマッカーサーの極秘会談
昭和20年(1945年)9月27日。日米の事前の申し合わせ通り、極秘のうちに天皇とマッカーサーの会談が行われる。
午前9時50分、皇居内の吹上御文庫(ふきあげおぶんこ)を4台の車が出発。天皇の車には藤田侍従長が同乗、ほかに宮内大臣、侍従、侍医、行幸主務官、通訳、現地警護担当など計8名が同行。
車列は交差点名で「二重橋前」→「祝田橋」→「桜田門」→「虎ノ門」を通り、外堀通りの「赤坂一丁目」を左折してマッカーサー公邸(現在のアメリカ大使館)へ向かう。
極秘会談であるため、移動中の警備体制はとられていない。
じつはこの移動の際、天皇が乗った車が赤信号で停止している。たまたま横に並んだ車の人が、自分のとなりの車に天皇が乗っているという、ありえない光景を不思議そうに眺めていたという。
ちなみに令和の現在でも、皇族が街中を移動する際には厳重な警備が前もって敷かれ、信号機は警察官による手動制御(あるいは指示)となるため、皇族が移動中に信号待ちすることはありえない。
天皇が公邸に着いても、マッカーサーは玄関に出迎えに出てはいない。これは事前の申し合わせ通りの対応である。
天皇が公邸内に入り、対面、そして握手。つづいて総司令部側の写真班が、写真を3枚撮影。このときの写真が、二人が並んで立つ、有名な写真である。
後日、朝日・読売・毎日の三紙が、この写真を掲載したことに対して「不敬罪である」と内務大臣が問題視。三紙を発禁処分とする。
しかし、日本の法律がすでに有効でなくなっているこの時期、マッカーサーは「内務大臣にそんな権限などない」と激怒。ただちに発禁処分を解除、内務大臣の罷免を指示している。
写真撮影のあと二人は、通訳の外交官・奥村勝蔵だけをともなって部屋へ入る。
会談は35分であったという。
外交官・奥村勝蔵の意訳
この35分間で何が話されたのか。
外務省の公開記録である「奥村記録(通訳の奥村勝蔵による記録)」によれば、初めにマッカーサーが約20分にわたって所見を述べたという。
ポイントとしては、「原子爆弾の破壊力は筆舌に尽くしがたい。今後、戦争が起きれば人類が絶滅に至る」、「終戦にあたっての天皇のご決意は英断」ということだった。
そのあと天皇は、「自分としては極力避けたい考えだったが、戦争となってしまったのは、最も遺憾とする所」と述べたという。
いっぽうアメリカ側の記録、具体的に言えば「マッカーサー回想記(原題:Reminiscences)」には、「私(天皇)は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う(… to bear sole responsibility)ものとして、私自身を、あなたが代表する諸国の採決にゆだねるためにお訪ねした」と発言したと書かれている。
大きな違いは「責任」という言葉である。
奥村記録では、天皇は責任について言及していないことになるが、マッカーサー回想記によれば「責任」という言葉が入っている。
仮に天皇が「責任」という言葉を発したとする場合、行動で示さねばならないことになる。それはつまり退位するということである。
ちなみにマッカーサー回想記にある天皇の言葉については、あとからマッカーサーが記憶を辿って書いたのではなく、会談のあとすぐに副官に伝えたものによるという。
近現代史に詳しい、ノンフィクション作家で「昭和史を語り継ぐ会」を主宰する保阪正康氏は、この微妙な問題について徹底的に調べたことがあるという。
保坂氏は個人的な考えであると前置きしたうえで、
「通訳が入って35分の会談ということは、実質的な会談は20分ほどだったと思う。いろんな資料を見ていると、マッカーサーの方が、7:3ぐらいで会話の主導権をとっている。そうすると昭和天皇が(与えられた短い時間の中で)『私の運命がどうなってもいい、戦争の責任を明らかにするために来た』というようなことを話すリズムになることはあり得ないのではないか」、そして「戦争の当事者としてここに来た、ということは言うかもしれないが、(このような状況において)『全責任を負う者として』といったような具体的な表現をするわけがない」と指摘する。
ひとつ一つの言葉を確認し、かみしめるようにして通訳する緊張状態での会談であるから、実質20分という点は理解できる。
保坂氏の話では、この考えについては現在の外務省の人々も認めているという。なぜなら、昭和天皇のさまざまな発言をすべて細かく分析していくと、天皇が「責任」という言葉は決して使わない(「責任」という言葉を公式に使ったことは一度もない)からだという。
これは筆者の考えだが、当時の天皇は神(現人神:あらひとがみ)であったし、もしこれを認めないとしても、古来天皇の存在は(ほとんどの時代において)公家はもちろん、武家のトップである将軍も超越した、神的存在であったという流れは認めざるを得ないだろう。
したがって、人間・裕仁(ひろひと)の(公式の場における)辞書に、「責任」という言葉がなかったとしても不自然なことではないように思う。
ではなぜ、こういった食い違いが起きているのか。
先述の保阪氏は、通訳の奥村勝蔵が「意訳」したのではないかという考えを示している。
つまり、実際のところ天皇は「責任」という言葉を発してはいないが、その真意をアメリカ人に、アメリカ人であるダグラス・マッカーサーの心に響かせるために、敢えて意訳をしたのではないかということだろうと、筆者は理解している。
少し話がそれるけれども、筆者が2000年前後に運営していた「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」というウェブサイトで触れたことでもあるのだが、たとえばホノルル空港の入国審査で、旅行者が係官に対して話す言葉というのは、大げさに言えば(中東一神教の)神に対して発する言葉とも言える。それほど欧米では、人が発する言葉そのものに、日本人が想像しえないほどの重きを置いて生きている。
他方、日本においては、言外に匂わすというか、無言のうちに、沈黙のうちに政治力を発揮してしまうということが、(一般人の日常においても)確かにある。良くも悪くもではあるけれど、欧米にはないこういった民族的背景とでもいうものを、もしかしたらマッカーサーも何らかの形で感じていたのかもしれない。
さらに言えば、同時通訳が入るという、ある意味での不完全性をも考慮したうえで、人間としての天皇をとらえていたのかもしれない。
言語と世界観
英語を学習する日本人は令和のいまでも多い。
じつは筆者も英会話スクールに通ったり、カセットテープとテキストのセットを購入したり(そして挫折したり)した「くち」である。
筆者自身は、「使う言語が違うということは、我々が生きているこの世界を説明・整理するための言葉が異なるということであり、それはつまり同じ地球上に生きていながら、この世の整理のしかた、説明のしかた、捉え方が異なるということではないか」と考えている(宗教という面も決して忘れてはならないが、話がそれるので割愛)。
英会話学習で出てくるようなシーンでは、使用する言葉や言い回しについて、それほど微妙なことは起きないかもしれないが、ビジネス上の契約行為だとか、ましてや国家間のコミュニケーション(首脳会談や条約締結など)においては、非常に繊細な問題となるであろうことは容易に理解できる。
日本の占領政策について、トルーマン大統領から(すなわち連合国すべてから)全権を任されていたマッカーサーは、天皇の言葉に、そして奥村勝蔵が通訳した言葉に、「震えるような感動を覚えた(筆者訳:「A tremendous impression swept me.」)」という。
君主たる者の最後の覚悟に接したマッカーサーは、日本に対する占領政策に関して、ある確信を深めることになる。
そもそもアメリカをはじめ連合国を構成する各国からは、天皇を処罰し、天皇制を排すべきだという声も大きかった。そうした声も背負っていたマッカーサーとしては、日本をどうやって変えていくべきか、天皇や天皇制をどうすべきかについて、相当に悩んだに違いない。
ここは様々な説、議論、意見があるところだが、結果として天皇は罰せられることはなく、天皇制は維持され、象徴天皇制として現在に続いている。
マッカーサーは天皇との会見ののち、自身が作成した「極東国際軍事裁判所条例」を発出。この条例に従って、いわゆる「東京裁判」が行われる。そしてそれは、天皇の責任を問うものではなかった。
使命としての意訳
昭和20年9月27日、初めての「昭和天皇・マッカーサー会見」では、前もって日米の間でいくつかの申し合わせがあった。
そのひとつに、「連合国最高司令官マッカーサー元帥は、天皇の来訪にあたって、玄関での出迎えや、見送りは行わない」という取り決めがあった。
しかし、この会見のあとマッカーサーは、玄関まで天皇を見送りに出ている。
そしてマッカーサー回想記のこの部分の締めくくりには、天皇を「一人の人間として、日本の最上の紳士(… the First Gentleman of Japan in his own right.)」と評している。
ここからは筆者の想像になるが、仮に通訳の奥村勝蔵が、「word to word」すなわち直訳のようなことをしていたら、おそらくマッカーサーは「いい加減で、あいまいなことしか話せない民族の君主は、やはりこんなものか」と失望していたかもしれない。より強権的な占領政策が進められ、その結果、現在のような日本にはなっていなかったかもしれない。
しかし奥村は、ここで何を伝えるべきかをよく理解していた。
それは表面的な言葉ではなく、戦後の日本を視界に入れ、天皇の真意を理解し、ここから始まるであろう国際協調の歩みを支えようとする情熱のようなものではなかったか。
奥村はその時、まさに使命としての意訳をした、と言えるのかもしれない。