今年は2024年だから、100年前は1924年(大正13年)ということになる。しかし本稿では、100年前をザックリと「第一次世界大戦が終わったころ」としたい。なぜならその時の日本社会のありようと、令和のそれが、なにやら奇妙に重なっていると感じるからだ。
じつは日本は、第一次世界大戦においては戦勝国であった。しかしそこからズルズルと悲惨な第二次世界大戦へと傾斜していく。「あの時期」を、いま一度確認してみることは、令和を生きる我々にとって意味があるのではないか。
INDEX
- 帝国の時代
- 戦勝国だった日本
- 令和との奇妙な共通点
- 不安の先にあらわれてくるもの
- Z世代にまで引き継がれている浪花節思考
帝国の時代
冒頭2項ではまず、第一次世界大戦とは何だったのかを、若い人たちというよりも、きちんと知る機会さえ与えられなかった筆者のような中高年層のために、簡単にまとめておきたい。そのうえで本題へ入っていく。
良い悪いといったことはさておき、約100年前の日本あるいは世界において、戦争に勝利するということは、国家としても国民(というより臣民)としても、大変重要なことであると考えられていた。そして第一次世界大戦という出来事の結果、日本は戦勝国グループの一員として祝杯を挙げていた。
まして、日清・日露の両戦役に勝利したあとでもあり、我々日本人は、官民を挙げて「自分たち日本人ってスゴいんだ」といった空気に酔いしれていた。
第一次世界大戦の前と後で世界がどう変わったかをひとことで言うなら、「帝国が4つも消滅した」ということになる。そしてそれまで帝国の臣民(しんみん)だった人々が、ネイション(Nation)の意識、すなわち「自分たち国民が国家を作り上げているのだ」という意識に目覚めていくということが挙げられる。
もちろんこれは、ヨーロッパを中心とした変化なのであって、日本人が国民、ましてや市民といった意識に出会うまでには、まだ相当の年月と、そして外圧が必要となる。
さて帝国とは、皇帝や王といった人間ひとりが国家権力を握り、自国の領土を超えて他国の権益を搾取し、さらにその強大な権力を世襲させていくような政体のことである。第一次世界大戦の前、世界は帝国主義の時代といえた。
たとえばまず、工業化に成功していたイギリスである。
当時はグレートブリテン島と、アイルランド島の全域を領土とする「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」であった(現在はグレートブリテン島と「北」アイルランド)。
イギリスは世界各地に植民地を広げており、特にインドを直接統治していた(イギリス領インド帝国、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任)。
そして本国とインドを結ぶルートとなるアフリカ大陸を、南北にわたって統治することにより、インドへのルートを確立しようと画策していた。
ちなみに、イギリス本国からインドへ行くなら、もっと直線的にいけばいいではないか、と思うかもしれない。しかしそこには強大なオスマン帝国がブロックしており、この時代のヨーロッパ諸国は、迂回するして極東方面へ向かうしかなかったのである。
つぎに、このイギリスと争うように植民地政策をしていたフランスである。
そもそもフランスでは第一次世界大戦がはじまる125年も前(18世紀の終盤、日本では松平定信による寛政の改革が始まったころだ)にフランス革命がはじまり、それまでの封建的な王政(ブルボン王朝による絶対王政、アンシャン・レジーム)が崩壊している。
しかしこの有名なフランス革命でスッキリしたのかというと正反対で、議会で話し合って決めようとする共和政と、皇帝が一人ですべてを仕切って世襲していこうとする帝政が何度も入れ替わり、国内におけるまさに血みどろの争いを重ねて来ていた。
そうして第一次世界大戦の前ごろになると、キリスト教(カトリック)が政治に絡みついてくることを嫌う政教分離の動きが激しくなり、1905年にフランス政教分離法が公布、ようやく信教の自由が保障される。
いまではフランスというと、なにやらオシャレで上品なイメージがあるかもしれないが、既存の体制を打ち壊そうとするエネルギーが常に渦巻いているのがフランスという国なのかもしれない。
この第一次世界大戦間近の1905年(明治38年)といえば、日本人は、ロシア帝国との戦争にかろうじて勝利し、「日本人はスゴいんだ意識」に酔いしれていた。
そして「大帝国ロシアを打ち負かしたというのに、なぜ日本はもっと権益をもらえないんだ」と怒った者たちが起こした暴動「日比谷焼き討ち事件」が起きる。これは日本人の愚かさ、無知さを象徴する事件だったが、司馬遼太郎は、この時期を「日本人が狂いだした」「魔の季節への出発点」と表現している。
さて、本来ならほかにいくつもの国が絡みついてくるのがヨーロッパ、西アジア地域なのだが、かえって全体観が持てなくなってしまうので、このへんで止めておく。
ただ日本もこの時期、天皇を主権者とする大日本帝国であったことは指摘しておかねばならない。いわば「この世は帝国で構成されている」といったものの見方が、世界共通の認識でもあった。
戦勝国だった日本
第一次世界大戦では、日本は戦勝国となった。これはつまり、「勝ち組の主要国と仲良くしていた」ということである。
近現代の戦争はほとんどの場合、「A国 vs. B国」といった単純な構図ではなく、それぞれの国に協力したり、協調したりする別の国々が絡みついてくる。
さらに21世紀の現在では、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザ地区攻撃など、単純に「A国とその仲間たち vs. B国とその仲間たち」といった構図ですらない。
「ウチは基本、A国チームなんだけど、アレについてはB国との関係も大事なんだよね」といった具合に、さらに複雑なバランスに置かれている。そしてそんな国どうしがまた、多くの面で結びついたり反発し合ったりしている。
日本は、何の罪もないウクライナ市民へ惨(むご)い仕打ちを続けるロシアを非難しつつも、エネルギー供給や漁業資源、北方領土交渉などの面を考慮すれば、徹底的にロシアを排除できない事情を抱えている。この微妙さは正常な日本人なら理解しているはずだ。
さて、4年以上も続いた第一次世界大戦は、「連合国 vs. 同盟国」という構図である(連合国は「協商国」とも)。
連合国の中心国家は、第三共和政期のフランス、ロシア帝国、イギリス帝国であり、互いに経済面、軍事面で手を結んでいた(同盟国側から寝返ったイタリア王国もこちらに参加)。
対する同盟国は、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国などが中心となっている(同盟国は「中央同盟国)とも)。
けっきょく勝利したのは連合国側で、その中のイギリスと以前から手を結んでいた日本は「戦勝国」となったのである。
そしてこの大戦の結果、それまで存在していた4つの帝国が消滅する。ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国である。
ちなみに勝利した連合国チームに所属していたはずのロシア帝国は、もともと国内が不安定な状況のままに第一次世界大戦に参加していたこともあり、ロシア領内深くまでドイツ帝国に侵攻され、530万人以上の犠牲を出していた。これが大きく響き、ニコライ2世による帝政が崩壊したのである。
こうして世界は、第一次世界大戦によって帝国の時代をほぼ終えることになる。
令和との奇妙な共通点
1918年(大正7年)11月に第一次世界大戦が終わり、4大帝国が崩壊して世界地図が大きく変わった。そこから23年、日本によるハワイ真珠湾への奇襲まで、日本はジリジリとおかしくなっていく。
この23年間と、平成から令和のいまの時期が、ちょっと似たような状況になってきているのではないか、というのが今回のテーマである。
そのポイントは5つ(順不同)。
第一に経済不況、第二に任期中の首相が殺されるということ(安倍晋三氏の場合は内閣総辞職後2年弱)、第三に大規模な自然災害の発生、第四に政治の腐敗と国民の怨嗟、第五に世界的あるいは日本周辺における軍事的緊張である。
こういった条件が一定期間にそろってしまったとき、我々日本人はどうなってしまうのか。そこを今回は考えてみる。
まえもって断っておくが、「第三次世界大戦が起きる」などと言いたいわけではない。筆者が共通していると感じるのは、「この先、自分たちの国はどうなるかわからない」という不安に包まれた日本人の状況であり、時代の空気である。
今後、日本人にとってなにか大きな出来事が起きた時、我々は思い返さなければならないことがある。それは我々日本人が、一定のショックや不安を感じた時、思考や議論に必須な冷静客観的な感覚を忘れてしまいやすいというクセだ。直情的で暴力的なものの考え方が突っ走ってしまいやすいという気質である。
たとえば、あのコロナ禍における、今では笑い話のような数々の反応・対応は、当時は真剣に考えていた人も多かったはずだ。
では、約100年前の時期の主な出来事をざっと羅列してみる。
- 1920年(大正9年):戦後恐慌(大戦バブルがはじける)
- 1921年(大正10年):首相の原敬が暗殺される
- 1923年(大正12年):日英同盟が失効
- 1923年(大正12年):関東大震災
- 1929年(昭和4年):世界大恐慌によって庶民の生活が窮乏、政党は腐敗、財閥は自分のことばかり
- 1931年(昭和6年):満州事変
- 1932年(昭和7年):五・一五事件
- 1936年(昭和11年):二・二六事件
もちろん、一つひとつの出来事がピタリと今の出来事に対応するわけではない。日本は少し前、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、バブル経済の絶頂を経験したが、そこからじわじわと埋没しはじめ、これまでどちらかと言えば見下していた、東南アジアなどの周辺諸国にさえ劣後する部分も目立ってきている。
それはまるで、ロシア帝国に勝利したあとの陶酔状態から、急速に社会不安の状態へと移り行く当時と重なって見えてしまう。
国家レベルの経済不調、首相あるいは元首相の暗殺死、地震や豪雨などの大規模な自然災害、政党の腐敗、倫理なき資本主義のありよう。
そういった俯瞰で眺めてみると、現在の日本と奇妙に一致するように見えてはこないだろうか。
不安の先にあらわれてくるもの
いま、ごく一部の人々を除いて日本人は、間違いなく不安な状況に置かれている。
自分たちの老後はどうなるのか、子どもたちが成長したあとの社会はどうなっているのか、そもそも結婚や出産は将来の共倒れリスクではないのか、日本にいてはヤバイのではないか...。
そうした何とも整理がつかない不安な状態に置かれた日本人は、なにかきっかけとなるような出来事に直面した時、「この際だから」といった直情的で近視眼的な単純思考に陥り、取り返しのつかない、誤った選択をしてしまうのではないか。
「この際だからやっちまえ、行っちまえ」とでもいうような短絡的な反応である。
すでに政党の中にも、平成の終わりころからだろうか、これまでにない様相を見せる勢力が生まれてきている。彼らは冷静な思考や、建設的な議論・対話を捨て去り、とにかく注目さえ集まればいいといったような姿勢に終始し、威圧的、ときには暴力的に自分たちの主張を押し出す。
別の言い方をすれば「他者の自由を制限するのも自分たちの自由」というような態度である。
そしてこうした勢力が、ネット社会の現代において、ある程度の支持を得ているという点も懸念される。
ちなみにこうした姿勢は「アテンション・エコノミー」と親和性が高い。人々の情緒的で近視眼的な感情をあおる情報をSNSなどに乗せて発信し、閲覧数を稼いで広告収入を得るのである。情報の内容はどうであれ、注目さえ集めれば金が儲かるというのがネットの、SNSの特性でもある。
確かに、昨今の政治状況にはがっかりさせられるし、腹も立つ。
しかしだからといって「キレて騒いで混乱させる」ことが賢明な方法であるはずがない。
そんな、心理的に幼いものの考え方が、過去にどんな悲惨な結果をもたらしてきたかを、いったい我々日本人は学んでいなかったのか、次世代へ伝えてこなかったのかと落胆させられる。
筆者がここで懸念しているのは、戦前の「動機が正しければ何をやってもOK」という社会的風潮が拡大してしまうことである。
わかりやすい例をあげれば、1932年(昭和7年)の「五・一五事件」がある。当時の首相だった犬養毅が、自宅に踏み込んできた陸海軍の武装青年将校たちに、とにかくまず話そうという姿勢を見せたにもかかわらず、問答無用で射殺された。
しかし、このような暴力行動に対して(生活に困窮していた)多くの国民が、そしてマスメディアが「犯罪者」を擁護する側に回り、その後の裁判に重大な影響を及ぼしたのである(全国から減刑の嘆願書、果ては切り取られた指などが裁判所に届き、被告人の涙の訴えに裁判長さえ涙を流したりしたという)。
何とも古い話を持ち出すと思うかもしれないが、人間の心の動きに古いも新しいもないだろう。
事情は異なるが、安倍晋三元首相が街頭演説中に、手製の銃で撃たれて亡くなった事件のとき、犯人の背後にある(旧統一教会にからんだ)特殊な事情がわかってくるにつれ、同情するような空気が少なからず盛り上がった。「よくやってくれた」などと不埒な発言・投稿をするような者もいた。
筆者は安倍政治に大きな疑問を感じているし、宗教を装った犯罪的集団というものにも大きな問題意識を持っている。
しかし、だからといって犯行そのものが許されるような空気、ましてや称賛されるようなことがあってはならないと考えている。それとこれとをごっちゃにして、涙、涙の浪花節(なにわぶし)、物語にまとめ上げてしまうのが、我々日本人の大きな弱点でもあるのだ。
Z世代にまで引き継がれている浪花節思考
古い話のついでに触れておくならば、令和の現代においても、例の「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」の問題感覚がある。
そもそもあの事件(吉良邸討ち入り)は、当時の法体系を破って処罰された人物(浅野内匠頭:あさの・たくみのかみ)の家臣らが、のちに計画的に起こした集団報復殺人である。
にもかかわらず、犯行グループは忠臣の鑑として祭り上げられ、被害者である吉良上野介(きら・こうずけのすけ)らは「とんでもない悪者」として、現代社会においてさえ整理・固定化されている。
物語として楽しむ分にはいいかも知れないが、仮にこういった意識が、いま生きている現実社会に対しても働いてしまうのだとすれば、重大な問題である。
筆者とほぼ同世代の読者であれば、著名なタレントが自分の配下のメンバー数人とともに、ある出版社を襲撃した事件を覚えているだろう。あのとき(このブログを読んでいる)読者は、マスメディアは、どう事件を整理・理解していたであろう。
こういった例は、挙げれば切りがない。それらはみな、「動機が正しければ何をやってもOK」という意識だ。
そんな意識が拡大しつづけ、ついに国の方向を考えるような場に影響を与えてしまうならば、我々は自らの首を絞めるようなことになってしまうのではないか。
だとすれば、そういった意識は未だに、我々日本人の腹の底に通奏低音のように存在し、ぬぐい切れないものとなっているということに気づかねばならない。
いま現在の社会が、仮に100年ほど前の状況と相似形にあるのだとすれば、またぞろ、こんな「日本人らしさ」が発揮され、引き返すことが出来ないマズい状況へと滑り出していく可能性がある。
昨今の日本人が抱いている言葉にしにくい不安は、「モヤモヤ」といった言葉にも表れているような気もする。
もし賢い日本人であろうとするならば、これまでの日本人の思考・判断・その結果を、いまいちど振り返り、自分たちの思考のクセを点検しなければならない。