ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

それはフジテレビだけなのか

2025年01月30日 | 沈思黙考

1月27日、フジテレビの夕刻から深夜にかけての視聴率推移は、どのようなものであったろう。ある男性タレントにかかわる疑惑についての記者会見である。結果として10時間を超えた会見は同局で生中継された。この事案そのものをあれこれ論じる気はないが、「ジャニーズ事件」を象徴的な例として、華やかな世界の裏側にあるものが、今年はさらに明らかになっていくのではないかという気がしている。また「SNS時代の記者会見」とでもいう現象を目にして、記者会見というものの意味についても考えさせられた。

※写真は本文と関係ありません。

INDEX

  • 華やかな舞台の裏で
  • 巧妙な脅しのシステム
  • 底辺の人たちは知っている
  • 大きくブレた記者会見
  • アカウンタビリティは説明責任じゃない
  • 震えて眠る者たち

華やかな舞台の裏で

その昔、「芸能人は歯が命」というフレーズが流行っていた時期があった。歯磨きペーストのCMだったと記憶している。
それも間違いないだろうが、人気タレントの場合は「イメージが命」といった方が正しいだろう。

テレビであれ舞台であれ、そのパフォーマンスは多分に物語性を帯びる。つまりフィクションを演じているということである。そしていつしか、演者自身もフィクションとしての存在を要求されることになっていく。
たとえば「清純アイドル」は、それを支持する人々の脳内イメージとして「清純」である必要がある。それこそがビジネスとして重要だからだ。
なにも、清純さを公的に証明する必要などないし、清純イメージの完成度を高め、それを維持しておけばよいのである。

10年ほど前の話になるかと思うが、ある女性タレントが不倫関係を続けていたということが公になり、活動を一定期間休止する事態に追い込まれた。
たとえ「業務」に支障が出ていなくとも、イメージと乖離かいりした私生活が明るみになり、「けしからん」と世間が判定すれば、バッシングの対象となるのが日本社会というものなのかもしれない。

しかし、騒いでいる人々のそのストレスは、脳内に存在していた「創られたイメージ」の毀損きそんから発生しているのではないだろうか。いわば脳内イメージを壊された「裏切られ感」である。
だいたい、そのタレントになんのイメージも抱いていない人にとっては、事件や疑惑など、どうだっていいことだ。

こういった、演出効果に大きく支えられた(実力一本ではない)タレントを使用したビジネスでは、多くの人々が見聞きすることになるパフォーマンスの表側を、より高度なものに磨き上げ、かつ維持していくために、見えないところはどうでもいいといった思考・行動様式になりがちである。そしていつしか倫理的であることすらも排除され、「金のなる木」を育てるプロジェクトとなっていく。

巧妙な脅しのシステム

「芸能界ってそんなもんだろ?」といったことを口にする人たちがいる。そこにはおそらく、一般社会とは異なった無秩序で、不道徳で、反社会的な色合いが大なり小なり存在し、しかも、ある程度は許容されるべきだというニュアンスさえ感じられる。
「その微妙なところを行くのが、この世界の存在意義でもあるんだゼ」と、わけ知り顔で言う人もいる。

報道という、ショウ・ビジネスとは対極的な分野と言える立場からも、「オレたちが日本社会の秩序をコントロールしているのだ」と断言する者もいる。
これらはみな、「自分たちは特別な存在だ」といった、ねじれたプライドに根差しているのではないだろうか。

ここまで言ってしまうのは、筆者自身が十数年間にわたって、そういった業界に身を置いていたことが大きい。それは特定の職業ということではなく、業界の中や周辺で、うろちょろと転職していた、と言った方が正確だ。
ジャニーズの一件に関しても、かなり以前から、誰もが業界の常識・常態であるかのような理解をしており、しかも「触れてはいけないこと」として固定化していた。筆者自身もウッカリ素朴な疑問を口にしたとき、厳しく窘(たしな)められた経験がある。

さて、「有名になるためには何でもする」といった人(特に若者)は、掃いて捨てるほど存在する。「何でも」の意味はこの際、ご想像にお任せしよう。
筆者はこここそが、こういった業界(決してTV界に限らない)の特徴であり、あらゆる問題の温床であると考えている。
もちろん、その卓越したパフォーマンス一本で「のし上がって」くる人もいるけれど、そんな実力派でさえ、チャンスが与えられなければ何も始まらないのが、パフォーマンスをビジネス化する「業界」というものである。

しかしこういった傾向は、一般企業でも多々見受けられることであり、「多少のハラスメントは受忍するのが大人」といった傾向にもつながっている。しかしその程度が、しばしば並々ならぬものであるのが、芸能という世界の特徴でもある。

アイドルタレントと異なり、ある種の高尚さをイメージするかもしれない芸能のひとつに、オペラ歌手という存在がある。
じつは筆者の知人女性がそれなのだが、毎年イタリアへ渡航してレッスンを受けている彼女が言うには、「やはり(最高の舞台を目指すのであれば)実力だけではどうにもならない」のだという。
そして、「チャンスをつかむためには何でもする」という、実力あるアーティストが、これまた掃いて捨てるほど存在し、そういった考え方や態度は、ごく一般的なものであるという。

そもそも「何でもする」は、真っ当で真剣な覚悟でもあり、一概に非難されるものではない。問題は、そこで「チャンスを与える側」に立つ者たちである。

底辺の人たちは知っている

ところで筆者は、都内のタクシーをかなり利用していた人間である(自腹で)。ハイヤーにも乗っていた。ちなみに都内で「ハイヤー」と言った場合は、道端で気軽に止められるタクシーのようなものではなく、法人間で年間契約する高級乗用車(と運転手)で、いわゆる「黒塗り」というヤツだ。
そういった関係で、筆者自身の経験も織り交ぜながら、これまで非常に多くの運転手たちと気さくに話す機会があったし、現在も「飲み友」となっている人もいる。

そこでは当然、いわゆる有名人に関する話題も出てくる。もちろん彼らも守秘義務があるから具体的なことまでは言及しないし、彼らの常として「話を盛る」ことも多いのだが、たくさんの運転手の話を総合することによって、見えてくるものが確かにある(ちなみにタクシーには、車の外と中を記録するカメラが設置されるが、ハイヤーのそれは車の外を記録するものしかない)。

そうしたなかで、ほとんど多くに共通して聞かれるのは、「テレビ関係者の傲慢さ」である。それは社会的常識がないというよりも、感覚の欠如に近いものだという。
あるタクシー運転手は、「自分の事情や気分を、(何も言わなくとも)周囲の人間たちが理解していて当たり前と考えているようだ」と嘆く。

その人の体験によれば、都内の著名なホテルの前で男性客を乗せたところ、「○○病院の前をUターンして△△通り」とだけいい、イヤホンをつけて「自分ごと」に熱中し始めた。
そして△△通りを走っていると、「あ!ここ左だよ、左ぃ!」と突然怒鳴りだし、急に機嫌が悪くなったという。そこは、ある民放キー局(フジテレビではない)の入口だった。ゲートを守っている警備員に対しても、ぞんざいな態度で社員証を見せ、最後には舌打ちをして局の正面玄関で降りていったという。

撮影機材でも持っていて、いかにもTV関係者のような風体ふうていをしていれば、この運転手も気を利かせることが出来たかもしれない。冷静に考えれば、タクシーに乗ったときに「(TV局の名)まで」と言えば済むことだが、そうも考えられなかったようだ。
事程左様ことほどさように、自分を冷静客観的に眺める感覚が欠如しているとしか思えないテレビ関係者の例を多く聞かされる。それは一種の発達障害ではないかとさえ思えてくるほどだ。

こういった傾向は、いわば「万能感」から来るものなのかもしれない。筆者的には「オレはスゴいんだ意識」と呼んでいる(複数形や女性版もあり)。悲しいまでの思い上がりともいえる。
バブル期の話ではあるが、テレビ局社員というものは、人によっては20代でも2千万円前後の年収を稼ぐのだという。世間を見下すような感覚になってしまっても不思議ではないのかもしれない。

運転手に限らず、たとえばビル清掃(トイレ清掃)の人、警備員など、ある意味人知れず定点観測をしている人たちは、業界関係者のありのままの生態をよく見ている。

大きくブレた記者会見

今回のフジテレビの件で言えば、事件そのものより、もう一つ、記者会見というものについても考えさせられた。
「記者」の範囲を絞って設けられた、最初の会見が大きな批判を浴び、その罪滅ぼしであるかのように、一転してかなり「ゆるい」入場資格で二度目の記者会見がセットされた。
そしてその様子は生中継され、10時間を超えるCMなしの「番組」として放送された(厳密には音声処理の都合で数分遅れて送出されている。また一瞬CMが流れてしまったが、おそらくマスターコントロールルームでのプログラムによるものだろう)。

テレビっ子として育った昭和世代の筆者としては、テレビ史上かつてないであろう「番組」に興味を抱いたし、これはある意味でのエンターテインメントではないかという感覚すらあった。
とはいえ時間も長くなるにつれ、会見そのものが「けだるい」空気に包まれはじめる。

そして一部の人たちの不規則発言や怒声、枝葉末節あるいはほとんど関係のない質問、何が聞きたいのかわからない「質問」、質問というより個人的所見の演説、マイクの独占のような状況、そしてこれを制御できない進行役。
まるで、炎上するSNSの場を具現化したような会見場の様子に、筆者はウンザリして寝てしまった。
似たような感想を持った方は少なくなかったのではないだろうか。

記者会見とは、世間一般に対して説明を行う場であり、その情報仲介者として「記者」が集まって行われる。そして記者は、質問をすることが許されている。一方的な「大本営発表」にならないようにするためだ。
つまり記者会見とは、民主主義的な手続きと言える。だとすれば、そのやり方、あり方そのものについて考えることが重要である。

今回の記者会見で言えば、いくら「自由」が大切であるとはいえ、そこにはやはり一定の秩序が必要なのではないかといった感想が残る。また「フリーのジャーナリスト」というものが玉石混交であることが、あらためて明確になったともいえる。

アカウンタビリティは説明責任じゃない

記者会見では、「説明責任」といった言葉がよく出たりする。これはいかにも日本人らしい訳し方ではないだろうか。
一般に「責任」を英語では「responsibility」という。不正や重大な過ちなどがあった場合、組織であればなんらかの懲戒処分を受ける事により「責任をとった」という理解になるようだ。すなわち「罪と罰」である。

これに対しもう一つ存在する考え方が、「accountability」である。これを日本人は「説明責任」と訳して今日まで至っている。
しかし、これは理解が間違っている。というか誤解を生む原因となっている。

「説明責任」と訳してしまうと、「説明すればOK」ということになってしまい、「こちらはちゃんと説明をしているではないですか。それを理解できないあなた方こそどうかしている」という、くだらない展開になってしまう(まぁ一部の政治家にとっては便利ではある)。

「accountability」は「説明すればOK」という概念なのではない。 事実を一つひとつ検証し、どこで間違ってしまったのかを明らかにしたうえで、これからはそのような間違いを起こさない、起きない社会にしていこうという、いわば社会が学習するための手続きである。決して、誰かを非難したり批判したりするための考え方ではない。

日本社会はどうも、「けしからん」と感じたことに対して、寄ってたかって当事者や関係者をコテンパンにし、「よし、これで解決」とするような傾向がある(しかも批判している自分が直接迷惑をこうむっているわけでもない)。
しかしそういった態度では、問題解決を見ることは困難だし、未来への学習にもならない。たんに留飲を下げただけの話であり、「さもしい」精神構造の表れ、と言えるのではないだろうか。そうして、またいつか同じ構造の失敗を繰り返し、非難を繰り返す。
たとえばこのあたりが、西洋人が日本人を見下す意識に影響しているのではないだろうか。

わずか75年ほど前、日本は約7年間にわたって、(独立国としては)地球上に存在していなかったわけだが、そのとき日本を仕切っていたマッカーサーという人物は、「日本人の精神年齢は12歳の子どもだ」と言い放ったという(発展途上にあるという好意的意味ととらえる主張もある)。
だとすれば、令和の日本人の精神年齢は、いったい何歳なのであろうか。大人になれているのだろうか。

震えて眠る者たち

必死にチャンスを求める人たちに対して、そのチャンスを分け与えようとする側に立つ者が、自分の利益のためにふるまうことは、決してめずらしいことではない。
またそうした立場にある人間は、その人間性をき出しにしてくる場合もある。比較的大きな組織、階層的な人間集団においては、その多くの部分で権力にモノを言わせて、他者を支配しようとする意思が働いている。

今回のフジテレビの件に関して言えば、流れている情報の9割以上は憶測に基づくものではないだろうか。
男性タレントと女性の間に、重大な人権侵害にあたると思われるトラブルがあり、それは一応の解決を見ているということ。そして、この私人間しじんかんのトラブルに関し、なぜかフジテレビが会社として介入しているということ。
要はそれだけなのではないかという気がしている(詳しいことはよくわからない)。

仮に、一般常識だとか社会通念として異常なことが習慣的に行われている業界が、この日本社会、人類社会において許容されているのだとすれば、社会問題として追及すべきだろう。そして我々は、社会の一員として関心を払っておく必要がある。
ただしそこでは、留飲を下げて解決、といったような幼い心理で臨むのではなく、よりよい社会を作り、維持していくためには、どうあるべきかを冷静に考える姿勢が求められる。そういう意味において「直接迷惑を被っているわけでもない我々」は、問題を見つめることが大切なのではないか。

2025年は、中国古来の暦では「乙巳いっしの年」なのだという。それは、白黒をハッキリさせて社会が大きく変革するという、60年に一度の年なのだそうだ。
筆者の世代が「大化の改新」と習った社会変革も、現在の教育現場では「乙巳の変」と教えているらしい。

ねじれた価値観や倫理観、それを容認してきた人間や集団が、ことし白日の下にさらされるのだとしたら、暦どおりということになるのかもしれない。
もちろんそれは、特定のテレビ局に限ったものではないし、テレビ業界に限ったものでもない。芸能・芸術の域さえ超えて、チャンスや権益を与える側に立つ者たちの、世間をなめきったような態度に、回答が出されることでもある。


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