「経済か命か」と悩みつつGoToしているコロナ禍の日本では、いっぽうで卵を産んでくれる鶏を大量に殺処分している。単純に並べて論ずることではないけれど、なんとなく違和感を覚えないだろうか。と同時に、医療・介護の崩壊は「迫っている」のではなく、「それは一部で始まっている」といえないだろうか。さらにいえば日本政府も機能不全に陥っていると感じるのである。
医療・介護は部分的に「破綻」しはじめた
「医療崩壊」という言葉がセンセーショナルに使われたりするが、筆者はその前段階・前兆という意味での「ローカル破綻(はたん)」が目立ってきているととらえている。
コンクリート構造物のクラック(ひび割れ)のように、小さなレベルでの亀裂があちこちで発生し増えていった結果、いつの日かそれらがつながり、短期間に大規模な破壊へとつながる現象とつい重ね合わせてしまうのだ。
政府、行政機関、専門家集団など、いったい誰が「医療崩壊状態」であると認定し、またそのことによって何がどう変わるのかは知らない。ただそういった公的な立場としては、より広範囲な視界においての状況を対象とするだろうから、相当壊滅的なところまで進まない限り「崩壊」や「破綻」などという言葉は使わないだろう。
仮に、筆者の個人的感覚で論を進めるならば、札幌や旭川、大阪などの一部の医療機関はすでに「破綻」していることになる。
通常、病院で医師や看護師が足りなくなれば、関連する病院などから応援をもらうようだが、一部ではそれもままならず自衛隊の看護師を要請する(または検討する)事態にまでなっている。「医療」が「軍事」に助けを求めたといえば言葉が過ぎるかもしれないが、限定的範囲とはいえ医療界だけで自立的に回らなくなったことに違いはないだろう。
ましてや今回の感染拡大の影響によって直接・間接に経営が回らなくなり、本当に「経営破綻」している医療機関も少なくないと聞く。さらに、コロナ前から恒常的に指摘されていた医師不足、看護師不足、地域格差など、従前からの問題もベースにある。
本稿執筆中の12月上旬、重症者は増え続けている。そんななか、具合が悪くPCR検査を希望していた人がこれを拒否され、その後数日で急激に重症化して死に至っている例も報告された。大阪では新型コロナに対応する専門の医療施設を作る計画のようだが、肝心の看護師が半数も集まっていないという。
高病原性鳥インフルエンザ
なにかちょっと懐かしい言葉として響くだろうか。「そういえば昔、鳥インフルエンザなんて騒いでたなぁ。あれって結局なんだったっけ?」と。
ことし令和2年、野鳥を除いた家禽(かきん:鳥類に属する家畜)における鳥インフルエンザは、西日本の6県にわたって19件確認されている(農林水産省、12月8日)。そしてこれに関連して、たとえば宮崎県では20万羽以上、広島県では13万羽以上の鶏が焼却、埋却(まいきゃく)されている。もちろん他の県でも多くの鶏が殺処分されている。
自治体によっては職員だけでなく自衛隊にも応援してもらい、3交代24時間体制で懸命に殺処分を行っている。自衛隊としては今、鳥インフルエンザと新型コロナの両面で出動する事態となっているわけだ。
殺処分は脊髄断絶、炭酸ガス、移動式焼却炉、エアバーナーなどの手段によるらしいが、大半は感染していない元気な鶏たちだ。殺処分に携わった自治体職員の中には、精神的に参ってしまい事後にも引きずっている人もいるという(12月24日追記:残念ながら千葉県ではまさにケタ違いの116万羽の鶏を殺処分することになってしまった。毎日1,000人以上が24時間態勢で殺処分を実施し1月7日までかかる見通しだという)。
鳥インフルエンザは、新型コロナ(COVID-19)のようにただちに人間に影響を及ぼすというわけではない。基本的には鳥の世界のウイルスであり、鳥の世界の病気である。ただ少なくとも養鶏業者にとっては深刻な問題であり、殺処分はやむを得ない対応ということになる。
ところが鳥インフルエンザウイルスは、ごくまれに人や豚などに感染し、その体内でウイルスが変化を遂げ(変異)、人から人へ感染する能力を獲得してしまう場合がある。こうして新たに人間の世界に登場してきたウイルスは「新型〇〇ウイルス」と呼ばれることになる(あたりまえだが自然界の野鳥はどこでも自由に飛び回って糞や羽を落として回る)。
ただ日本においては、例えばウイルスが検出された養鶏場から半径10キロ以内が「搬出制限区域」などに指定され、区域内の養鶏場で飼育されている鶏や卵の持ち出し、出荷を制限される。殺処分や消毒などもあわせ、「初期段階で徹底的に」対応が行われるため、感染した鶏の肉や卵が流通にのるなどと言ったことは起こらない(仮に感染した鶏の肉や卵を食べたからといって必ず感染するものでもないそうだし、そもそも加熱不十分な場合などは別の問題だ)。
GoToの功罪
GoToキャンペーンは、観光業者を中心に経済的打撃を緩和させる効果があり、その意味では功を奏しているようだ。しかし、人が動けばウイルスも動く。感染していても約2週間は症状が出ないこともあるのだから、無症候者が1~2泊程度の旅程で日本各地をめぐり、バラまいているという見方もできる。感染が拡大しないわけがない。
いっぽうで、平常時から旅行や外食に行く余裕などない人もいるのだから不公平だという意見もある。それは経済的に余裕がない人だけではない。医療や介護従事者をはじめとした、時間的にも感染リスク的にも「そんな場合じゃない」人々もいる。
しかしこれは、不公平だとか、余裕のある人に消費してもらうのだとかいった議論を超えて、柔軟性とスピードの問題のような気がする。「経済も大事、命も大事」なのは間違いないわけだから、臨機応変の対応が最優先されるべきだ。
いま、心身ともに疲労困憊し、場合によっては自分や家族までもが差別や非難に遭い、加えてボーナス・カットなどの収入減で完膚なきまでに痛めつけられ、耐えきれずに辞めていく看護師も少なくないという。
医療・介護の現場は低賃金や3K労働などといわれたままほとんど放置されてきた。現場で汗をかいている人たちにこそ、ダイレクトに現金を供給することは出来ないものだろうか(金があってももう回らない状態なのだと訴える医師もいる)。
病気やケガ、高齢化で苦しんでいる人たちを、まさに身を挺して助けよう、支えようとする人々を潰してしまう社会なのだとしたら、国家が国家たる要件を満たしていない気がする。
筆者は政治や行政の仕組みについてはほぼ素人だけれども、例えば期間限定的にでも県や政令市の現場レベルに判断を任せ、その現場判断を国が追認するようなことは難しいだろうか。人や組織が絡めばからむほど、実行タイミングは遅れ、臨機応変な対策の実行など無理である。
感染の拡大、経済の疲弊、この対策が両方とも後手に回っているとすれば、悲劇なのかお笑いなのかわからなくなってくる。
政府も崩壊し始めた?
原子炉がメルトダウン(炉心溶融)していても、「メルトダウン」という言葉を決して使おうとしないような種類の人たちは、最悪の事態が起きている可能性が高くても、そうとは認めようとせず「直ちに危険という状況ではない」とか「すべてはコントロール下にある」といったような物言いをするのだろう。もしかしたら「アンダー・コントロール」ではなく「アンコントローラブル(制御不能)」の言い間違いだったのか。
本来なら目の前の事実をありのまま直視し、状況改善のために正面から向き合い、出来ることをきちんとやっていくべきだろう。それなのになぜか、「願い」を込めながら「最悪ではないはずだ、きっと...」と祈るように事態を解釈し、根拠のない「めでたし物語」を信じようとするのは、日本の伝統文化なのだろうか。それとも東アジアに共通するセンスなのだろうか。
まさかこのタイミングで日本の人口構成を「調整」し、保険・年金・介護・高齢運転者などの問題を一気に片付けようなどと策謀しているわけではあるまい。
しかし、公的記録を残さなかったこと、廃棄したことなどがさんざん非難されたにもかかわらず、今回もまたGoToキャンペーンの進め方について話し合った記録文書が無いのだそうだ。
「アカウンタビリティ(accountability)」は説明責任と訳されがちだが、これだと「私たちはいつも説明している、責任は果たしている」と言われてクローズとなってしまう。
これは本来、「誰が、いつ、どんな判断をしたか」を記録しておき、うまく行かなかった場合はその出発点に立ち戻り、皆で検証し、よりよい判断を学んで新しい社会を前進させていく手順のことだ。うまく行かなかったときに判断者を叩きのめして清々するための仕組みでは決してない。
日本ではresponsibilityとaccountabilityが一体となって人々の意識に染みついているのかもしれない。だとすれば、これが悲しくて危険な日本の状況といえるのではないだろうか。
こんな状況で希望はあるのかと問われれば、明確に「ある」と筆者は断言したい。しかしそれを具体的に明示すると、却って誤解や混乱を招くことも予想されると感じる。そういう意味では見えにくく、わかりにくい存在かも知れない。
なんだか無責任であいまいな言い方だが、よく社会(国内に限らず)を観察し、政治に関心を持ち、身近なコミュニティや集団での気づきを増やし、出来ればそれらのモノゴトについて反対的な立場の人の話も聞きつつ、自分の頭で考えてみることが大切である。そしてそのことによってのみ見えてくるものがある。
ちょっとシンドイかもしれない。しかしそれをサボっていると、大きな動き(それも悪意を含んだ)に流されてしまい、そのことに気づくことすらできない自分になってしまう。
「こんなことになるなんて」と嘆いた時にはもう遅かった、という話は歴史上、たくさんある。