ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

コロナ禍、「元に戻さない」ために

2020年05月05日 | 沈思黙考

今回の新型コロナウイルス問題で、社会機能や日常生活が揺らいでいる。元に戻りたいというのが多くの人の率直な気持ちだろう。しかし、これが長期戦になるにしても、あるいは残念ながら感染爆発の後に集団免疫を得るとしても、元の社会に戻るのではなく、新しい社会の仕組みを創生しようとする方向性だけは共有したほうが、現実的ではないかという気がしている。

未来に向かって悲観的にならないこと

確かにいま、新型コロナウイルスに関する(おもに政府の)対応の問題や、崩壊寸前といわれる救急を含めた医療システム、そして日常の市民生活が危ういという現状はある。
しかし、終戦直後のように日本中の何もかもが崩壊、あるいはその寸前ということではないということも同時に心に留めておきたい。

銀行をはじめとした金融機関はほぼ機能しているし、さまざまなキャッシュレス決済も機能している。路線バスや鉄道は、ほぼ平常時に近い状況で運行されている。食料品も、マスクなどを除いたほとんどの日用品も、特別な苦労をすることなく手に入る。ゴミはきちんと収集されていくし、電気・ガスは通常通り供給され、上下水道も機能している。郵便や宅配も多少の遅延はあるものの機能している。テレビやラジオの放送、インターネットなどの通信網や公衆電話網(通常の電話回線)も機能している。
そして批判はあるが、行政の生活支援も一応は動き出している。

また、こういった社会機能のほかに、たくさんの助け合いの輪ができ始めている。
教育現場をはじめ、芸能人やアーティスト、あらゆる産業のプロフェッショナルたちが、ほとんど手弁当で人々を支える頑張りを見せてくれている。 そしてそういった動きは、政治や行政だけで社会が支え切れるものではないということも雄弁に証明している。

我々はいま苦悩と不安の状況に置かれている。しかし、少なくとも未来に向かって悲観的になるべきではない。
それは、希望を持たなければ未来を作っていけないということでもあるけれど、前述したさまざまな分野で、それぞれの立場でのリスクをともないつつ、いまも「あたりまえの日常」を支え続けている人たちに対するせめてもの礼儀でもあろう。

日本人が経験してきたもの

戦後、物も心も失ってしまったような日本は、アメリカ的構造を基礎とした新社会建設へ向かおうとするベクトルと、かつての日本の形に戻そうとするベクトルとが存在していた。しかし、資本主義の土台を整えて経済的繁栄を目指すというベクトルのほうが圧倒的に強く、その結果世界第1位の経済大国という地位を得る時期もあった。

反面、工場や採掘場からの排出物による日本各地での公害、食品による健康被害、戦争状態とまで言われた交通事故の状況、大小さまざまな犯罪の発生、社会のあらゆる場所に戦前からしぶとく残る「〇〇とはこうあるべき」という価値観、個性を封じられ良質で均質な労働者であることを「空気」によって強要されるような時代が、もろ手を挙げて「昔はよかった」などとは到底いえない。

しかし、もたらされた結果がどうあれ、それが幸せへの最もベターな道と信じて走ってきた(あるいはそういった政治を許容してきた)という事実には、これから未来に向かって進む日本人もきちんと向き合っておく必要がある。

今世紀の初頭、東日本大震災が発生し、その影響で原子力発電所のメルトダウンにつながり、社会全体が文字通り暗く鬱々としたムードだったとき、「たかが電気ではないか」という、あるアーティストが放ったフレーズが世間に踊っていた。

しかし、電気(電力)はもちろん、あらゆる社会機能に支えられた、人々の平和と安定があってこそ文化も花開くということを、いまや多くの人が実感している。人々の日常と心の安定を支える社会機能、そしてそんな一人ひとりが人間らしく輝くための文化は、相互に対立するものではなく、支えあうものであるということも忘れたくない。

新しい社会の建設

昭和・平成・令和の日本社会の流れの中で、一体何が犠牲にされ、後回しにされ、忘れられたり、隠されたりしてきたのか。そしてまた「日本社会とはそういうものだ」と諦めの中で飲み込んできたのか。
それらを明らかにする作業は、時につらく切ないこともあるかもしれないが、それによってしか、新しい社会を建設できない気がする。

「たまたま運の悪い人生を歩むしかなかった少数の人たち」、などという考えで意識の外に押しやって、大多数の人たちの視点と意識のみで社会を再設計しようとするのならば、これまでとは本質的に変わらない社会がつくられ、それは相対的に日本を退化させてしまうだろう。

我々は、ものの見方や考え方を磨く努力をしなければならない。
昨今では「自粛警察」が問題になっている。自分は正しく物事を理解し、状況を判断しているのだという思い上がりに加え、別の場所で感じたストレスが混じりあい、簡単には非難されないであろう(安心な)場所で、怒りを爆発させているようだ。

かつて「STAP細胞騒動」のときも、いったいそれがどういうものであるか理解しているわけでもなく、自分に迷惑が降りかかっているわけでもない人が、わけ知り顔で批判を展開していた。渦中の人物がもし、ムスッとした中高年男性だったなら、ずいぶんと世間の反応も違っていたはずだ。

マスメディアの煽りグセも問題だが、「けしからん事」を見つけては叩きまくりたいという人は、いつの世にも存在する。しかし、そんな浅はかな思考や行動から抜け出て、新しい社会を建設するための思考テクニックを学ばなければならない。

実験!思考トレーニング

ここでちょっと実験的にアタマを回してみたい。どれか一つだけでも(外出自粛のいま)考えてみていただきたい。なお、以下のテーマに出てくる数字はいずれも、おおよそのものであるし、「諸説あります」というパターンのものでもある。

  • 日本の国会議員は多すぎるから減らすほうがよい、という意見がある。議員を養うコストは、政党助成金も含めると一人あたり年間2億円ほどだそうだ。また参議院については各都道府県から2名選出し、つまり94人で十分だという意見もある。そのうち一人は都道府県知事が兼任すればよい、とまでいう意見もある。
    しかし、そんなところを削っても大した金額にならない。そんなことに時間を費やすよりもやるべきことがあるはずだ、という意見もある。
    あなたはどう考えるか。なぜそう考えるのか。
  • 福島第一原子力発電所の事故後、一時的ではあるが国内すべての原発が停止しても日本社会は破綻しなかった。だから再生可能エネルギーの分野にチカラを注いでいけば「原発なし」でも日本はやっていけるという意見がある。
    いっぽうでこんな意見もある。中国・韓国・台湾などが続々と原子力発電を加速させている。日本の周辺に(危険な)原発が増えてきたとき、これに対して意見を述べるためにも、国内に原子力技術をしっかり保持していなければ、聞く耳を持ってもらえない可能性がある。また廃炉のための高度な技術も必要である。今後そこを支える日本の若者は、批判にさらされるこの業界へ進んでくれるだろうか。さらに世界の原子力発電を、日本の技術が支え、製品を輸出しているという事情もある(例:日本製鋼M&E日立製作所と米GE東芝と米ウェスチングハウス三菱重工と仏アレバ)。
    あなたはどう考えるか。なぜそう考えるのか。
  • 生活保護受給者は甘えている。不正受給もある。そんな人たちのことを考慮する必要はない(後回しでよい)という意見がある。
    いっぽうで、受給者がせっかく働いて稼いでも、稼いだ分が支給額から減額される。ゆえにいつまでたっても貯金が出来ず、勤労意欲も持てず、生活保護から脱することが出来ないという話がある。また、本来受給すべき人なのに、罪悪感から受給を申請しない人がかなりいるらしい。こういった点こそ問題ではないか、不正受給はごく一部の話である、という意見もある。
    あなたはどう考えるか。なぜそう考えるのか。
  • 刑務所は満員で、老人保護施設あるいは生活保護施設のようだという現実がある。もちろん税金で運営されている。また、一度出所した人が再び罪を犯して入ってくる例が少なくないという。
    重大な罪を犯した人間は厳しく罰しなければならないという意見がある一方で、こんな意見もある。刑期を終えて出てきた社会に居場所がなければ、再犯するより仕方がないではないか。だからこそ、社会の仕組みや意識を変え、出所後のサポート体制を考えなければならない、と。教育し、社会人として迎えられれば、良き納税者が増えることになる。罰するだけの考えでは、社会はこのまま増加する刑務所のコストを払い続けなければならない。そのほうが社会的にムダであるという意見がある。
    あなたはどう考えるか。なぜそう考えるのか。

中高年こそ勉強しなおし

学ばなければならないのは、おもに中高年以上の我々だ。 なまじ長く生きてきた分、経験だけは多い。それが一定の自信にもなっているのだが、同時に狭い世界を生きてきた一個人でしかない、ということからも逃れられない。

自分自身も、バイアスがかかっている人間の一人であるという謙虚さを持ちつつ、なぜ、どうしてそのような意見を持つに至ったのかの思考過程を、正しい言葉で他者に語る努力を積み上げなければならない。

そして物事のとらえ方、ものの考え方を磨いていかなければならない。昭和の発想、平成の発想からアップグレードしなければならない。
読書もいい、討論番組を見るのも悪くない。大切なのはそれを踏まえて自分で考える訓練をすることだ。家族や友人同士で議論してみるのも有意義だ。

そういった心がけがある人とない人では、生活に大きな差が開いていく。
かくいう私も十把一からげに「なまくら」な中高年と括られるのはツラい。じきに高齢者になるのだから、どうせなら若い世代から一定の尊敬をされるような高齢者になっていたい。
「ごまかしテクニックだけは磨いてきたダメ系中高年、逃げ切り高齢者」と呼ばれないためにも。


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