ハングルカゲショップのブログ過去ログはhttps://blog.goo.ne.jp/hanglkage

韓国映画とドラマと韓流グッズなど手に入りにくいものをソウルで店主が直接、探しました

OSTを探してハニャン大回りをさがしたけど全く成果なし

2022-12-29 21:21:12 | 韓国で見た、食べた思い出

OSTを探してハニャン大回りをさがしたけど全く成果なしで食べたキムチチャーハン

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プデチゲ、いやあ、ポピュラーになったよね

2022-12-29 21:08:57 | 韓国で見た、食べた思い出

プデチゲ、いやあ、ポピュラーになったよね、関西だとお好み焼き定食、焼きそば定食とかアルじゃん、でも他の地域の人は炭水化物に炭水化物はないよねって言うけどケンミンショー見ていたらきりたんぽの残りをおかずにご飯食べてるじゃん、,プデチゲもラーメンにご飯だよね、ありですか? 手プデチゲが味が濃いのでご飯は必須だね、その上,マカロニ、パスタが入っているのもあったりする、もう何でもありかな

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

済州島のゴミ集積所なんだけど、、、

2022-12-29 20:59:29 | 韓国で見た、食べた思い出

済州市に税金を納める代わりにゴミの集積場所になっている,,,

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

むすめの済州島の思い出 2008

2022-12-29 20:42:33 | 韓国で見た、食べた思い出

船に乗った。
 それは韓国・済州島の周りを少し遊覧する程度のもので、その日は曇り、八月の夕方はやはり湿度が高かった。船はぐらぐらと揺れて、その度に韓国の女の子たちがきゃあきゃあ笑い声を上げる。十分間ほど、わたしはただひたすら灰色の海をながめていた。というより、そうするしかなかった。父はカメラをいじっていた。母と祖母は白いチェアの上でお喋りを。空が群青色を帯びてくる。灰色の海は黒へと近づいてゆく。
 わたしがこの済州島に来たのは十数回目だろうか。父が韓国人である関係であり、父方の墓はこの島にある。ハンモニ(おばあさん)も住んでいる。初めて行ったのは、4歳のとき。わたしはあんまり憶えていないけれども、たぶん、この空と、黒いゴツゴツした岩と、耳に鳴り続ける風はきっと昔から、変わっていない。『それなのに』と、わたしは船の上でふと思った。ただ小さい頃遊び楽しんだこの済州島は同じままなのに、世界は変わり、そして日本と韓国も変容しつつある。そしてわたしには、二十二歳が近づいてくるということがとても、重い。

 タクシーに乗った。船の少し前の時間である。済州島はタクシー料金が非常に安く、祖母のため、わたしたちはいつでも乗ることにしていた。運転手の人は三、四十代の男の人。父がいつものように、曰く「たいしたことない」らしい韓国語をのそのそと話す。突然ドライバーさんがこっちを振り向いた。親しげに笑う。異国の地での笑顔は誰であれ、親近感がわくものだ。後部座席の祖母、わたし、母がぎゅうぎゅうに座り、同じように嬉しくてにまっと笑う。
 「日本の方は久しぶりデス」
 ワー、と車に母や祖母の歓声があふれた。片言のような発音だけれど、上手い。というよりも、語彙がかなり豊富らしかった。いつも外を見るしかない母などは、少し会話に交ざろうとする。
 「日本語がお上手ですねぇ?」
 「アー、ホテルでそこの、フロント係やってました。でもタクシーに変えました、今は」
 父が、「やっぱりタクシーのほうがいいんですか?」と訊く。
 「はい」と彼は言った。「このほうがいい。日本のお客さんは昔多かったしお金たくさん持ってました。でも今は中国人のほうが多い」
 「そうですか」
 「けどね、」と彼はそのままの調子で続けた。「日本人はいいヒト多いけれど、日本政府はダメね。日本政府が日本の人たちにウソ、教えてる。トクトは韓国のものです。日本の人たちは親切、みんな礼儀正しいし、でもそれだけはヤッパリね。間違ったこと、って気づかなければいけません」
 車の中の雰囲気が一気にうんざりしたものになった。父が応答していると、ドライバーの人は何度も何度も、「日本人は好きだけど」「でもトクトは韓国のもの」と言い続けた。海岸に沿って車を走らせながら、あれこれ景色や風土を説明しながら、それだけは言っていた。彼はとても親切だった。ただ彼の口からの「トクト」だけはなんとなく、かなしかった。
 最後に父がお釣りをちゃんと受け取って、みんなで車を出た。

 トクト、つまり竹島は今の新たな火種である。日本は江戸からの領土だと主張し、韓国は自分のものだと言う。父は韓国に仕事で行く度に、友人たちに「ところで、トクトのことだけれどね……」と言われているらしい。ネットでもマス・メディアでも火花が散っている。日本でもそうだし韓国でもそうだ。お互いに、お互いの国の政府は国民を洗脳していると思っている。きっと、それはどちらかが真実なのだろう。けれどわたしは分かりたくない。

 ニュースを見ていた。
 わたしたちが泊まっているホテルのテレビにはあまりチャンネルはなかったが、暇をつぶすのにはちょうどいい。朝、朝食であるコンビニの「キムチ・バーガー」の少し熱いのを、はふはふしながらたいらげた後、わたしはベッドでごろんと横になってニュースを見ていた。韓国語は去年の暮れから、ここのハンモニや父が喜ぶだろうと、習い始めた。まだニュースの言葉が解るわけもないが。ただ韓国のアナウンサーは化粧濃いなぁ、と思っていた。
 何だかよく分からぬおっさんの写真、これが大統領だと父が言う。この人があぶなくて、この人がこうでこうで……わたしには興味はない。が、次のニュースに部屋にいた全員は少しだけ目が丸くなった。あれ、この写真見たことあるね。何だっけ。
 ブラウン管のお姉さんが読み上げる。もちろん韓国語だけど、「トクト」「トクト」と言っているのはかろうじて分かる。え、トクトって竹島でしょ、竹島がどうしたの、とうちゃん、何かあったわけ?
 「えーーーーーと、アメリカの『地名委員会』が竹島を『韓国領』表記に戻した? らしい。もともとは。空白? だったのかなあ。でも、アメリカは中立の立場を取るって表明した? らしい」
 「え、じゃあ竹島は韓国のものなの? そうなったの?」
 「まさか。本気じゃない、アメリカは、」と父は笑った。「韓国にもいい顔したいし日本にもしたい。というか、どっちにもつきたくない。ただ今は韓国とアメリカの会議があるしね。まあ、高みの見物、対岸の火事。だから、本気ってわけじゃない。このことも――」
 わたしはしばらくぼんやりとしていた。韓国ではこれはけっこう大ニュースらしい。大国アメリカがトクトを韓国のものだと認めたぞ、みたいな。そっか、とわたしは思った。なんとなくどうしたらいいのか分からなかった。

 父はさっきも言ったけれど要は在日韓国人で、神奈川生まれの京都育ちだ。母は京都で生まれ京都で育った日本人だ。そしてわたしはと言うと、京都生まれの京都育ち、ただし韓国人になる『資格』を持っている。もちろん日本人にもなれる。どちらも『帰化』ではなく『選択』であり、その期限は二十二歳までだ。
 わたしにとって、日常は日本だが韓国は非日常である。それにこんな語学力で韓国人になるというのも想像がつかない。だが何故だかわたしは半分くらいは『一応』韓国人らしい。フランスと韓国を比べたら韓国のほうに関心があるのはやっぱり当然だし、日本のニュースに名前が出たらちょっと気になったりする。
 わたしは何なんだ、というのはわたしみたいな人たちの、あるいは日本生まれの両親が韓国人である人たちの、けっこう複雑な悩みである。今、竹島、二つの国は睨みあっている。韓国に行くと、誰もが彼もが「トクトは我々のものだ! ところであなたは日本人? じゃあどう思うわけ?」と言ってくるし、日本では実際に「僕は韓国人が全員嫌い。竹島が自分たちのとかって、どういうわけ?」と言っているのを聞いた。みんなわたしや父と関わりというと大げさだが親交があって、どの人もその人たちなりに気を使ってくれ、暖かく、親切な人たちだ。友達もいる。その人たちがそう言う。一瞬、何が正しいのだろうという気分になる。わたしには答えられない。なぜかもわからない。ただ、そう言う人たちは日本人になるために、あるいは韓国人になるために、そして自分たちの愛国心を作ることができるその環境にいるために、いったいどういう努力をしたと言うのだろう。そしてどんな風なスタンスにいればわたしは良いのだろう? こんな愚痴は、とても個人的な感情だと常々思うけれども、ただ、絡まった糸のようないらいら感が旅行のあいだ、旅行を終わっても、なんとなく胸に残っている。

 ラッポッギを食べた。ラーメンとトッポッギから生まれた韓国の子どもっぽいらしい料理で、超辛いが超旨い。クセになる。ラーメンの縮れた麺、トッポッギという餅、おでんらしき具、汁は少なくもちろん真っ赤。どこにでもあるがそこの食堂は学生ご用達らしく、父も安いと驚いていた。一口食べる。水を三口飲む。舌が痛い。結局、完食するまでに水はコップ十杯を数え、お腹はたぷたぷになった。帰りしな、ハンモニに「ごちそうさまって言ってみ」と言われ、「チャルモゴスンニダー」と店の人に言うと、店のおばちゃんは驚き、笑ってくれた。手を振ってくれる。少し嬉しかった。

 ――船は動き出した。
 暗やみのなかの島の、花火のように明るい電飾、ライトアップ、店やホテルの蛍光、そして海のむこうに浮かぶ白い光。島はそんなに広くないので、首を振るだけでだいたいが見える。船の一方の甲板には人が集まって島をひたすら見つめているが、反対側にはただ漁船のライトがあるだけで誰もあまり見ない。下は暗くうごめく波。ゆらゆらと、船は動いていた。クラシックの何かの曲がループして流れている。やがて、船は港に着こうとしていた。海賊対策のために来ている警官の人が手を振ってくれる。誰もが手を振って笑った。写真のフラッシュ。わたしたちはふうっと息をついて船を下りた。タクシーが待っていてくれる。父がお礼を言っていた。料金はいらないって、すごいわね、お礼言いなさいよ。そうしてわたしたちはタクシーに乗り込んだ。わたしは眠たかった。もやもやもしていた。
 「楽しかったですか?」とドライバーさんが聞いてくる。いろんなものが見えたでしょう、とわたしに笑う。
 そのとき思った。
 わたしがほんとうになんとなく、ほんとうに不可解にかなしいのは、その笑顔なのかもしれない。そしてまさにその人が「日本! 日本!」あるいは
「韓国! 韓国!」と叫んでいるかもしれないということを信じたくないのかもしれないのだと。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

むすめの済州島の思い出 2007

2022-12-29 19:59:12 | 韓国で見た、食べた思い出

むすめの済州島の思い出 2007 この一回の食事をむすめが文章にしたんだけど、うまいね

あァもう嫌だ疲れたよう。

 わたしの、御年八十歳にもなるばあちゃんが一言も文句を言わないのに、わたしはすでにグタグタである。一歩一歩、八月上旬の暑い昼、韓国済州島チェジュドの中心街の道路わきをのろりのろりと歩く。ほんとうはきびきびしたいところだが、意思だけではそうもいかぬ。ちょっと安い店で買ったサンダルの踵が高めだったから、とても痛い。

 それにしても、アスファルトの熱と車の排気ガスですさまじい暑さである。しかも今は午後一時。予定通りならどこかの店で涼んでいるところだが、あいにく今日は日曜日。どこもかしこも『休みです』、五軒目になろうかの閉店中にそろそろドアを蹴飛ばしたくなってきた。


 いやもうホント、エセ日本料理店でもいいから座らしてくだされや。

 ばあちゃん倒れたらどうすんねん、とーちゃん。

 つーかどっか目当たりはつけとかなかったのかよ。

 ここで補足しておくが、わたしたち家族はだいたい一年に一回、夏に『お墓参り』という名目で(わたしの父は在日韓国人なのだ)、ここ済州島へ遊びに来ている。が、父の韓国語は自身に言わせると『サヴァイバル』レベル、他の三人――わたし、母、祖母に至ってはボディランゲージに頼りっぱなしのレベルである。

 ちなみにわたしの話せる韓国語でよく使ったのは以下のとおり。

 『アンニョンハセヨこんにちは』『コマスムニダありがとう』『チャルモッケスムミダいただきます』『チャルモゴスムニダごちそうさま』『イエーはい/アニョーいいえ』『イゴオルマエヨこれいくら??』『ミヤナムニダすみません』『イルボンサラム日本人です』。

 ま、もうちょっとボギャブラリーはある(ちょと自慢)が、だいたいこれと指と手と体でなんとかなった。

 それと、韓国は年齢で上下関係が決まるものだから、お礼を言いたいときは『ありがとう三段活用』(わたし命名)を使う。すなわち、『カムサハムニダありがとうございます』『コマスムニダありがとう』『コマオヨあんがとさん』で、笑顔0ウォンと併用するとよいだろう(エラソー)。


 ――さて話を戻そう。わたしら一行は暑さでふらふらだったので、もう飯めしの旨いマズイにはかまってはおられぬ。喰わねば、死ぬ。

 そういうわけで、わたしたちは見つけた。つまりは、メニューが店の外にべたべた張ってある、いかにも大衆料理店である。正直もっといいところがよかった。

 ここでみなさんは、なぁにが大衆だ、上から見すぎだろ、と思うかもしれない。が、異国の地で、知ってる者は当然ほとんどおらず、得体も知れぬ謎の店に入る勇気が、あなたにはあるだろうか。わたしなら、たぶん、ない。

 しかし我々は、暑さと、空腹と、そして繁華街にもかかわらずほとんどの店が閉まっているという絶望的な状況に、負けた。

 わたしたち四人は覚悟を決める。

 店に入ると、いきなり、オッサン二人が焼酎を飲みながら酔っ払っていた。

 店のアジュマおばさんは、じろり、とわたしたちを見る。ここでなんと日本人がよく微笑む(いわゆるあいまい笑い)をしすぎる民族なのだろうと気づく。

 「四人なの?」(もちろん韓国語)

 「イエーそうです」と父。


 メニューは意外と豊富だ。が、わたしたちには何がなんだかさっぱりなので、すべては父にお任せである。とりあえずわたしは麺類が食べたかったので、それは言っておく。

 「メッチュビールをまずは」(しつこいが、もちろん韓国語)

 「グラスは二個でいいの?」

 「三個で」

 そしてテンジャンチゲ味噌味なべ二人前、チェーユポックン豚肉辛子味噌炒め、カルククス手打ちうどんをとーちゃんが頼む。わたしには水だ。

 しばらくするとビールと、そして大量のおつまみというか副菜たちがどんどこやってくる。わたしはつねづね思うのだが、おかわり自由のこれと、必ずついてくるごはんだけでお腹いっぱいになるんじゃないんだろうか。ざっとこの店では、じゃがいも炒め(シンプルに見えるが超おいしい。小学校時代の、ジャガイモのピリカラ炒めにそっくりである)、にんにくの芽(流石にこわくて手が付けられなかった)、たくあん(なぜにたくあん、と思うが色がどぎつい黄色なことを除けば普通の味、ばあちゃんがぱくぱく食べていた)、そしてなんといってもキムチ(白菜)――が出た。

 重い銀色金属の箸でおつまいを喰らいつつ、アジュマを見ると、なにやら思案顔でもう一人のアジュマと話している。

 「ねーとうちゃん、何て言ってんの?」とわたしが聞くと、

 「プッコッチュは辛いからいれんほうがいいよね、って言ってる」との答えが。おおありがたや。ちなみにプッコッチュとは青唐辛子、普通の唐辛子よりもはるかに辛い(らしい)。なので、韓国の人でもそのままでは食べない。だいたいはスープに入れるが、この日本人にはそれでさえもキツイだろう、と控えてくれたのだろう。

 また、二人で協議を終えたアジュマがわたしたちのテーブルにやってきて、テレビのリモコンを渡す。いわく、「テレビでも見たら?」らしいが、適当にニュースを見ていても、なんやら知らないオッサン(世界万国、政治家はオッサンだらけ)が、演説したりしている。当然、全くちんぷんかんぷんなので、わたしはしばらく店を眺めながら、ぼけっとしていた。韓国のアナウンサーもきれいだなあ、でも厚化粧だなあと思いつつ。

 十分後ぐらいに。

 「はいよ、チゲと、炒めもんと、うどんだよ!」とアジュマが目の前にいる。

 どん、どん、どどん、と次々に料理が置かれる。よく言われていることだが、韓国の料理は量がすさまじいのが普通だ。残しても、一応失礼にはあたらないが、こんにちでは韓国社会でも食べ残しゴミ問題が取り沙汰にされているのだそう。しかし、この店では、多いとはいえども、すごくというほどでもなかったので、内心安心した(我らがもったいない民族だからだろうか、たとえ失礼でなくても食べ物に、ひどく申し訳ない気持ちになってしまう)。

 ま、食べよう、御託ごたくはこれまで、わたしの腹は真空パック寸前なのだ、これ以上待つ理由がいづこにあろうか!

 チャルモッケスムニダ!

 まずわたしはスープ(テンジャンチゲ)に取りかかった。見れば闇鍋に入はいりたる具のごとく、貝やら野菜やらがぐつぐつと、赤っぽい味噌色のなかに煮だっている。

 どうれ、味見……………ッ…うまい!

 なんというか、様々な海鮮から出た汁が、ピリリと辛いスープと非常にマッチしていて、旨いと言わざるを得ない、というほどの味だ。正直期待していなかっただけあって、この衝撃はすさまじい。

 具はまさに多種多様、ムール貝、さざえ、いか、たこ、豆腐、ほしえび、野菜は…たまねぎ にんじん ズッキーニ、などなど。特に旨いのはムール貝。貝がらにスープを入れて一緒にすするのが、なんともいやはや。

 とーちゃんも、かーちゃんも、ばーちゃんも、感想は同じだったらしく、旨い旨いと言いながら、そしてとーちゃんはバチバチとブログ用の写真をとりながら、食べていた。

 わたしはというと、旨さに驚愕したのち、『あれ』をしていた。韓国だけでできる、あれ。

 それはスプーンをにぎり、スープをすくう、そのままスプーンを平行移動して鍋のふちで滴を切る、そして口をスプーンに近づいて食べる、という一連の動きである。

 これがわたしにとっては、とっても韓国らしい感じで好きなのだが、あいにく日本でははかーちゃんに怒られるので、できない。だから、韓国でこれを遠慮なくしているというわけなのだ。わたしの、慣例であったりする。

 それはそれとして。さてさて。

 次は、これ、カルククス(うどんらしきもの)だ。

 うどん――温かい冷や麦のような細い麺に、あんまり辛くなさそうな唐辛子の粉をひと盛り、そして青っぽいのりがたくさん入っていた。

 さっそく食べてみた。噛んでみた。味わってみた。

 ……うん、うん、うむ。これはマズイ。――このうどんへの審判は一言で尽いた。

 なんでだろう。にぼしのだしだらしいが、味がない。いやきっと、これは元々辛いものだったのだろう。無理に辛いのを取り除いた結果、こういうことになったわけか。

 すまん。しかしお前はマズイ。

 最後にチェーユポックン。豚肉の辛子味噌炒めである。もう前置きしまくるのに疲れたので言わせてもらうと、これもまた、おいしかった。辛さの点ではテンジャンチゲよりもう少しきつかったが、ごはんの上にのせて一緒かきこむと、なかなかいい感じだ。

 それから、食べた。ひたすら食べた。主にわたしが。不思議だが、辛いものはいくら食べても止めさえしなければ、いくらでも腹に入ってしまうのだ。ムール貝を食べ、水を飲み、豚を食べ、水を飲み、カルククスをとーちゃんのほうへ押しやり、またスープを飲む………まるでおもしろすぎる本を一気に読み進めるかのごとく。

 しかし、このとき、変な音が近づいてきた。ドーン、ちゃらぱん、パーン、だんだか、ドーン。おおう、近づいてくる、なんだなんだ。あっ!

 日本の人で聞いたことはある人は少ないと思うが、近づいてきたものは韓国の民族音楽というか、打楽器だけのひたすら同じ調子が続くもので、それらを叩く一行のパレードがこの店の前を通過したというわけなのだ。

 ドアごし(ガラス)から見ると、チマチョゴリを想像していただけるだろうか、あのような色彩の韓服カンボクを着た人々が、銅鑼やらたいこやらを持ち、足で調子をとりながら踊りながら、同じ単調なようなリズムでパレードしていくのが見えた。

 わたしたちはいかにもおのぼりさん風に、ドアに駆け寄り、これの次第を見つめていた。

 「学生かな?」「いやおばさんばっかりだった」というのがこのときの会話。

 店のアジュマはやっぱりわたしたちをアジュマらしい顔で眺めていたが、ちょくちょくテーブルに来て、なにくれと世話をやいてくれた。特に御年八十歳のばーちゃんには。もしかしたら、こんなに細い婆さんが辛さで倒れてしまうんではないのかと、はらはらしてたのかもしれない。

 「じゃがいも炒めのおかわりください」と、とーちゃんが言ったときにも、「辛くないから食べるんだね」とつぶやきつつも、それと、たくあんも持ってきてくれた。

 こうして「チァルモゴスムニダ!」と声を合わせたときにはもう、カルククス以外の皿はほとんどすべて空だった。そしてお会計、テンジャンチゲ五千ウォン二人前、チェーユポックン一万ウォン、うどん三千ウォン、〆て二万三千ウォンプラス消費税(二千七百円ぐらい?)。我々は、お互いによい店にめぐり合えたことをここに喜び合い、この店を褒め称えた(恥ずかしいのでもちろん日本語)。

 最後に店を出て通りのむこうを眺めると、もう二時を過ぎて暑かったが、太陽は雲に隠れ、少しは涼しい風が吹いていた。ま、辛い食べ物たちのおかげで、そんなことは役に立たなかったけれども。

 アジュマも店を出て、わたしたちを、特にばーちゃんを気遣って見送ってくれた。

 「あの、ラマダホテルはどこかわかりますか」と、とーちゃんが聞く。さんざん回り道をしたおかげでここに来たため、全く帰り道が分からないのだ。

 「パダハラム ムルヌキミョンソヨ カミョンテヨ」

 「なんて?」とわたし。

 「風に吹かれて行けば見つかるよ、って」


 ――あとで分かったというか理解したことなのだが、わたしたちの泊まるホテルはすぐ海の近く、それで潮風と波の音をたどれば見つかるよ、ということだったのだ。

 そういうわけで、わたしたちはやっぱり帰りも回り道をして帰った。そして来年も済州島に来るだろうけれど、もうあの店の場所はわかんないなあ、と呑気に言っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする