インターネットで東北の大震災と被災地のことを調べていて、ふと興味を引く記事を見つけました。
「ありがとうと言うのは疲れてしもた」「こんだけ御礼を言い続けるのがしんどいとは思わんかった」
口々に精神的な疲労を訴える被災者たちの素直な心情を伝える物でした。
この気持ちに深い共感を覚えたのでした。なにより、昔の自分に通じる物を見つけた気がしたからです。
『大変ねえ』 『偉いわね』 『頑張ってね』
ただ街を移動してるだけで、毎日誰かしらからこの手の言葉を投げかけられます。
黙って耐えるのに5年。 どうにか笑顔を作って頭下げるのに10年。『がんばって』と言われて、ありがとう、お互いに。と笑顔で返せるようになるまで20年かかりました。
私には大災害に遭った経験はありませんが、たくさんのボランティアやヘルパーとお付き合いして、対ボランティア、対ヘルパー用のコミュニケーションに関しては、そこそこ人に語れる程度の経験は重ねてきたつもりです。
もちろん最後は私と相手の相性次第ですので、合う合わないはどうしてもあるし、誰とでも仲良くできるなんて神様みたいな超能力も持っていませんが。
子供の頃は、なんで自分ばかりが人の目を集めるのか。人から下に見られるのかとふて腐れてみたこともありました。
毎日毎日いろんな人に助けてもらって、頭を下げて御礼言って、そんな自分が惨めに思えてイヤになったなることもありました。
それでも、あるとき考えたのです。何気なく自分の部屋の灯りを点けるのだって、どこか遠くの発電所の人たちが働いてくれなければ不可能なのだと言うことを。
発電所の人は私のの顔も知らないし、私一人のためにために電気送ってくれてる訳ではありませんが、電気がなかったら私は死ぬしかありません。
顔の見えない相手にさえ、毎日どれだけ助けられていることでしょう。
誰もがみんなお互いに少しずつ助け合ってるから、悲しいニュースで一杯の世の中でもどうにか止まらず回っている。私もその中で生かされている。
だったらせめて、私に見えるところ解るところで親切にしてくれる人たちには、その時その時に応じて、持てる全ての力で感謝を示そうと決めました。
そもそもの土台が違うので、被災した方たちとはまた感じ方が違うのでしょうが、
自分の責任の及ぶ範囲においては、どれだけしんどくても疲れていても、他者への最低限の感謝は忘れたくないなあと思っています。
障害を持つ自分だけが特別なのではない。
障害のない人であってもも、世の中を普通に生きていくこと、一見当たり前で退屈に見える小さな幸せを毎日維持し続けるのは、実はもの凄く大変なのではないかと勝手に考えています。すなわち、この世の中に大変じゃない人は居ない。偉くない人も居ない。頑張ってない人も居ない。みんなそれぞれ一生懸命生きてるんだなと。
だから周りの人たちは自分を見かけると声をかけずにいられないんだな。そう思ったら自然に『ありがとうございます』が言える様になっていました。
こんなふうに人に語れるようになったのも、つい最近のことです。
「ありがとうと言うのは疲れてしもた」「こんだけ御礼を言い続けるのがしんどいとは思わんかった」
口々に精神的な疲労を訴える被災者たちの素直な心情を伝える物でした。
この気持ちに深い共感を覚えたのでした。なにより、昔の自分に通じる物を見つけた気がしたからです。
『大変ねえ』 『偉いわね』 『頑張ってね』
ただ街を移動してるだけで、毎日誰かしらからこの手の言葉を投げかけられます。
黙って耐えるのに5年。 どうにか笑顔を作って頭下げるのに10年。『がんばって』と言われて、ありがとう、お互いに。と笑顔で返せるようになるまで20年かかりました。
私には大災害に遭った経験はありませんが、たくさんのボランティアやヘルパーとお付き合いして、対ボランティア、対ヘルパー用のコミュニケーションに関しては、そこそこ人に語れる程度の経験は重ねてきたつもりです。
もちろん最後は私と相手の相性次第ですので、合う合わないはどうしてもあるし、誰とでも仲良くできるなんて神様みたいな超能力も持っていませんが。
子供の頃は、なんで自分ばかりが人の目を集めるのか。人から下に見られるのかとふて腐れてみたこともありました。
毎日毎日いろんな人に助けてもらって、頭を下げて御礼言って、そんな自分が惨めに思えてイヤになったなることもありました。
それでも、あるとき考えたのです。何気なく自分の部屋の灯りを点けるのだって、どこか遠くの発電所の人たちが働いてくれなければ不可能なのだと言うことを。
発電所の人は私のの顔も知らないし、私一人のためにために電気送ってくれてる訳ではありませんが、電気がなかったら私は死ぬしかありません。
顔の見えない相手にさえ、毎日どれだけ助けられていることでしょう。
誰もがみんなお互いに少しずつ助け合ってるから、悲しいニュースで一杯の世の中でもどうにか止まらず回っている。私もその中で生かされている。
だったらせめて、私に見えるところ解るところで親切にしてくれる人たちには、その時その時に応じて、持てる全ての力で感謝を示そうと決めました。
そもそもの土台が違うので、被災した方たちとはまた感じ方が違うのでしょうが、
自分の責任の及ぶ範囲においては、どれだけしんどくても疲れていても、他者への最低限の感謝は忘れたくないなあと思っています。
障害を持つ自分だけが特別なのではない。
障害のない人であってもも、世の中を普通に生きていくこと、一見当たり前で退屈に見える小さな幸せを毎日維持し続けるのは、実はもの凄く大変なのではないかと勝手に考えています。すなわち、この世の中に大変じゃない人は居ない。偉くない人も居ない。頑張ってない人も居ない。みんなそれぞれ一生懸命生きてるんだなと。
だから周りの人たちは自分を見かけると声をかけずにいられないんだな。そう思ったら自然に『ありがとうございます』が言える様になっていました。
こんなふうに人に語れるようになったのも、つい最近のことです。