幕府が開かれてから大正の関東大震災まで、吾妻鏡に残された記述を始め、親玄僧正日記、鶴岡社務記録、神明鏡などに残された大地震や富士山噴火の被害記録を紹介したものである。
有史に刻まれた鎌倉を襲った地震をはじめとする災害がいかに多いことか、驚くばかりだ。
とは言え、今日のように被害の状況を説明する生々しい写真があるわけでもなく、せいぜい絵図が残されているだけで、記述そのものにしても「地震があって裏山が崩れた」とか「つないであった船が流された」とか、説明そのものは簡単なもので、どれだけの津波被害があったのか、人的被害はどうなのかなどと言うディテールははっきり言って詳しくない。
したがって想像力を働かさなければいけないのだが、ずいぶんと地震が頻発していることが分かる。
鎌倉の沖合遥かの海底ではユーラシアプレートの下に太平洋プレートとフィリピンプレートが沈み込んでいて、地震の巣とも呼ばれていることを証明しているわけである。
これが江戸時代に下ってくると記述もしっかりしたものになり、元禄16年11月の元禄関東地震では、幕府側用人の柳沢吉保が著した「楽只堂年録」によれば「大仏坂切通長三百二間幅六間崩」と、わが家に近い大仏坂切通が長さ549メートルにも渡って崩壊したのをはじめ、鎌倉に入る七口と呼ばれる切通がことごとく崩れ落ちる被害に見舞われたことが記されている。
549メートルと言うと、大仏坂切通のほぼ全長に近い。
そして「祐之地震道記」という書物によると「戸塚宿より鎌倉までの在郷ではことごとく家が潰れ、貝殻坂の大切通は山が崩れて道が塞がっていた。ここでは木の根などにとりついて越えることにした。鎌倉に入ると、円覚寺門前では在家が二百軒ほどあるが、皆倒れていた。谷々には寺家が数多くあるが、山が崩れて通路が途絶した。間道を経て円覚寺に至る。本堂、拝堂の石畳が崩れて泥水が湧きだし、仏壇も頽れて本尊が地に落ち、泥にまみれていた。その外、堂塔や方丈、寺家、崖も崩れかかって、その状態はたとえようもないほど激しかった」云々と、生々しく詳述している。
こうして見てくると、観光都市鎌倉は数多くの災害に見舞われてきた街なのだということがよく分かる。
鎌倉を襲った直近の大地震は1923年の大正関東地震だが、長谷の大仏の台座前方が約35センチ、右後側が約10センチ沈下して約45センチ前にせり出した。そして翌年24年にあった強い余震で尊像は30センチ後退した、とある。
45センチ前進し30センチ戻ったということか。365歩のマーチのようである。
東日本大震災の後、国を挙げて被害想定の見直しなどが進められ、鎌倉も例外ではなく、これまであまり強調されてこなかった津波の被害に対する警戒に目を向けるようなハザードマップが作成されたりしている。
旧市街に限れば津波は鶴岡八幡宮の真下や長谷の大仏の足元まで達すると想定しているのだから、平らな地域にはほとんど津波が到達するという想定である。
温故知新と言うけれど、こうして古きを胸に刻み込んでおくのは大切なことだろう。
ところで、由比ヶ浜の滑川河口から200メートルほど内陸に寄ったところにある鎌倉消防署は建物こそ残り、消防自動車は配備されたままだが、消防本部機能は内陸の大船消防署に移転した。これは津波対策を考慮すれば当然の措置である。
しかるに、去年移転した鎌倉警察署は、何と駅前からさらに海岸に寄った消防署の近くに移ったのである。
移転計画を立てた担当者の頭には「津波来襲」という認識が皆無だったとしか言いようがない。
はっきり言って大失態なのではなかろうか。
しかし、マスコミを含めて、こうした疑問を目にしたり耳にすることは皆無である。
日蓮上人の波乱万丈な生涯を描いた「日蓮上人註釈画讃」に描かれた1257年8月23日の正嘉元年地震の部分。馬が飛びはね、人は転げ、家屋が倒壊しているさまが生々しく描かれている。
1923年9月1日の大正関東地震を描いた「鎌倉大震災図巻」。坂ノ下の津波、長谷の火災、鎌倉大仏とその周辺(上2枚)と狼狽避難図(下2枚)。(いずれも特別展図録から)
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