今日はこれから円覚寺に行き、横田南嶺管長の法話を聞き、坐禅をしてくる。
9時からだから8時に家を出れば十分すぎるくらいの余裕がある。
徐々に人で埋まっていく大方丈の片隅で開始をじっと待ちながら黙想している時間も好きなのだ。
気候の良い季節なら自転車を漕いでいくが、厳寒のこの時期、しかも北に向かって走るのは老体にはこたえるので山の神に車で送ってもらう。
思い起こせば円覚寺の日曜説教坐禅会は2019年2月までは何事も無く続いていた。
それがパタッと中止になったのは19年3月の事である。
言わずと知れたコロナ禍。
以来、鎌倉の寺院はそれぞれが行ってきた行事を中止するどころか、息をひそめるように門扉まで閉ざして閉じこもってしまう時期まであった。
毎週行われていた坐禅会も例外ではなく、やっと去年になって人数制限付きの事前申込制と言う迂遠な形で再開されたが、ボクも何度か抽選に外れてしまうことがあった。
幸いなことに、と言うかせめてもの救いはコロナが始まって以降、横田管長はネット配信による法話を始め、宗教者としての発信にこれ努めたので、話は聞くには聞けたが、やはり寺で生の声を聞くのとネットでは臨場感からして違う。
坐禅もあったのだが、画面を開きながら自分の家で坐るというのは、「どんな条件の下でも坐禅の真髄は変わらないはずだ」と言われても、凡人には寺の雰囲気の下で坐るのとは雲泥の差があると言わざるを得ない。
雰囲気とか環境というものが持つ独特の効用と言うのは仇やおろそかにはできない。
特に凡人においておや、なのだ。
どうやら今月から人数制限は撤廃されたらしい。
日常化への一歩を踏み出したと言うところか。
ただし、クラスター対策のためか、ネット経由による申し込み制は続くようで、事前に住所氏名を届けることになっている。
まだマスクは必須だろうし、般若心経や白隠禅師坐禅和讃などのお経の唱和も中止されたままである。
そして何より、横田南嶺管長は偶数日曜日の説教坐禅会に加えて奇数日曜日にも坐禅会を開いてくれていたのだが、奇数日曜日の方は中止されたままなのが残念である。
日本列島の太平洋岸を東に進んだ低気圧が去って、昨日は朝からきれいな青空が広がった。
こういう時こそきれいな富士山が拝めるはずである。
北東の風が冷たかったが稲村ケ崎に立ってみた。
さすがに雪の量が増えている
富士山、箱根連山、伊豆半島(左端は天城連山)の大パノラマが一望に
海沿いを走る国道134号
低気圧の余波で波がそこそこあった
遠方は天城の山並