池波正太郎の「散歩のとき何か食べたくなって」という昭和52年に出版されたエッセイである。
書棚を何気なく眺めていて何げなく手に取り、横浜の文字が目に入ったのでそのまま読んでしまった。
懐かしい名前のオンパレードだった。
「弁天通りのカフェ『スペリオ』」「伊勢佐木町の古い支那飯屋『博雅』」「曙町の牛なべ屋『荒井屋』」「外国人も良くやってきた尾上町の『竹うち』」「スペリオのすぐ近くにあるカクテル・バーの『パリ』も私には忘れがたい店だ」「夜ふけの伊勢佐木町の居酒屋兼食堂の『根岸屋』へ良く出かけて行き…各国の異邦人と日本の男女が織りなす奇々怪々の世界を垣間見ることに熱中した一時期があった」「中華街の大通りから外れたところにある支那飯屋の『徳記』」
記憶がないのは「スペリオ」だけ。「竹うち」の看板は見たことがあるが入ったことはない。
残りはよく通ったものである。
「博雅」は小学生の時に連れられていった。昭和30年代の横浜の繁華街は伊勢佐木町で、ハマッ子は“銀ブラ”の向こうを張って“伊勢ブラ”と胸を張ったくらいである。
天井が高くて薄暗い店内だった印象がある。ここの焼売が美味しかった。池波によれば「挽肉に貝柱をまぜた」ものだそうだ。
駅弁で名高い奇陽軒のシウマイにも貝柱が入っているそうだが、ここら辺りがルーツではなかろうか。
既に店は畳んでしまったが、焼売だけは昔のままのレシピで売っているという話を聞いたことがある。
牛なべは荒井屋よりも「太田のなわのれん」に行く回数が多いが、荒井屋の方が庶民的である。
「パリ」には一時期、毎晩のように立ち寄った。主人の田尾さんは亡くなってしまっていたが、奥さんが店を継いでいた時期である。
「その田尾さんも亡くなってしまい、いまは、それこそスペリオのマダムを思わせる女性が一人きりで立飲台の向こうに立って、カクテルをつくってくれる。その腕前は相当なものだ。そして店の雰囲気は、昔の田尾さんのころとすこしも変わっていないような気がする。椅子もない立飲台だけの、しかも、まことに上品な店である」
小太りの奥さんで、目はくりくりしていた。いつも小一時間立ち寄って1、2杯飲んで行くのだが、ある夜、風邪気味だというと「これを飲めば治るわよ」と言って、やけにドロッとした液体を差し出してくれた。恐る恐る飲んでみたが口当たりは良く、美味しい。「すぐ帰って寝なさい」というので、仰せのとおりにしたら翌朝、けろっと治っていたのには驚いた。
「根岸屋」というのは伊勢佐木町のはずれにあった。
朝までやっていて、店内にはバンドが入って音楽を流し、料理はステーキからおでんまで何でもあり。酒ももちろん日本の酒から外国の酒まで、何でもござれだった。
店内のボックス席では池波が言うように、「異邦人と日本の男女が織りなす奇々怪々の世界」が繰り広げられていて、社会に出て何年もたっていない身には別世界であった。池波は「そのときに得たものは、いまの私の仕事の一部となって残ってくれている」と書き残しているのも、うなずけるのである。
“ハマのメリー”と呼ばれた白粉を塗りたくった有名な街娼もここでよく見かけたが、ある晩、営業中に紅蓮の炎に包まれ、そのまま店は姿を消してしまった。
印象が強烈だっただけに、姿の消し方とともに伝説になってしまった。
「徳記」にもよく出かけた。豚足というものを初めて食べたのがこの店である。
池波は「ラーメンがうまい」と書いているが、豚足そばをよく食べた。名物なのである。麺の入ったどんぶりと別の小皿に乗せられて出てくる豚足は、名前の通り足の先の形そのもので、濃いこげ茶色をしている。このままほじくって食べてもいいのだが、麺の上に載せて食べるのも美味しいよと教えられた。
食欲をそそる色と形とはとても言えないシロモノだが、よく煮込まれているから味が染みて、しかもトロトロに柔らかくなっていて、美味しいものである。
麺の上に乗せるとスープと混じり合って、また味が違ってくる。
最近食べてないなぁ。
池波が記した店で健在なのは、知る限り「荒井屋」と「徳記」だけである。
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