大概は中学や高校時代の教科書に載っていたものに再び出会い、あぁ、そうだったな、こんな漢詩に感心したものだな、などと当時を懐かしく思いだしたりする。
とはいえ教科書に載っているものはたかが知れているのだろう、ほとんどは初めてお目にかかるもので、そんな中で気を惹かれるのはどうしたって自分でも見聞きしたり、体験したりしたことのある、いわば既知の事象を読み込んだものに出会ったときである。
次のような七言絶句を目にして、な~あるほどなぁ、と深く感じるところがあった。
挿秧
種密移疎緑毯平
行間清浅穀紋生
誰知細細青青草
中有豊年撃壌声
挿秧(そうおう)
種(う)うること密に 移すこと疎に 緑毯(りょくたん)平らかなり
行間(ぎょうかん)清浅(せいせん) 穀紋(こくもん)生ず
誰か知らん 細細青青(さいさいせいせい)の草
中に豊年撃壌(ほうねんげきじょう)の声有らんとは
苗代にぎっしり伸びた苗を まばらに本田に移し植えると 一面にじゅうたんを敷いたよう
苗の間の清らかな浅い水には ちぢみの紋のような波が立っている
この細くて青々した草の中に
すでに豊年を祝う撃壌の声があることを誰も知るまい
(石川忠久訳)
南宋の范成大という人の詩である。
「撃壌の声」とあるのは「太平を謳歌する歌」のことで、帝堯の時、農民が太平を謳歌したという歌だそうだ。
啼堯は天下を治めて50年、平和に治まっているかどうか、また万民が自分を天子とすることをのぞんでいるかどうかを知るため、忍んで町へ出かけていくと、老人が口に食べ物を含みながら腹鼓を打ち、大地を踏みならして「日出でて作(な)し、日入りて息(いこ)う。井を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食らう。帝力何ぞ我に有らんや」と歌うのを聞いて、安心したという。
農耕生活など経験したこともないが、田んぼに植えられたばかりの苗が如何にも弱々しげに風に吹かれている光景などは幼いころから身近にあったし、今も身近に狭いながら田んぼがあって、ここは代かきは終わって水が張られているが、まだ田植えは始まっていないのを、どうしたんだろうなどと、通りかかるたびに思ったりしているのである。
田の草取りに就くはずの、5羽の合鴨もスタンバイ済みなのだが、肝心の苗が植わっていないため、畦に座りこんで手持無沙汰な様子なのがおかしい。失業状態なのである。
それにつけても、水が張られた田んぼに植えられたか細い苗が風にそよぎ、水面に周囲の景色が写っているところなどを見ると、とても心が和む。
実際に農作業に携わったことなど皆無の身には、その大変さなど知る由もなく、暢気なものの見方かもしれないが、DNAに刻み込まれているとしか思えない懐かしさを覚えるのだ。
ようやく白み始めた窓の外は雨がしとしと降っていて、今日は1日中降るらしい。読書の日である。
田植えが終わらないので畦に座りこんだまま失業状態の5羽の合鴨衆
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