かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな
鎌倉・長谷の大仏を詠んだ与謝野晶子の歌だが、実は「釈迦牟尼」ではなく「阿弥陀如来」で、間違いに気付いた晶子は詠み直し、その短冊が高徳院に残されているそうだ。
晶子の名誉のため付言すれば、鎌倉幕府の公式文書である『吾妻鏡』の大仏を記した記述の中にも「阿弥陀如来」とすべきところを「釈迦如来」と誤記しているところがあるそうだから、いわくつきの誤りなのだ。
その詠み直しが次に掲げる歌…
かまくらや みほとけなれど 御姿の 美男におわす 夏木立かな
しかし、この詠み直しの歌は人口に膾炙せず、作者の晶子自身も元の歌を取り消すことも無かったので、釈迦牟尼と言えば晶子、晶子と言えば釈迦牟尼、釈迦牟尼と言えば美男の鎌倉大仏…ということで定着しきってしまっている。
声に出して読んだ響きも、字面だけを眺めても、釈迦牟尼の方が断然優れているし、まぁシャカムニという響きはインパクト絶大だと思う。
詠み直しを受けた寺側もそう感じたのだろう、境内にある歌碑に刻まれた歌は釈迦牟尼の歌のままである。
さて、この大仏は台座も含めると高さは13mもある。
元は奈良の大仏のように大仏殿が建てられ、その中に鎮座していたが、作られて間もないころに大風で倒壊してしまった。
以来、われらが美男子は炎暑のギラギラの太陽を容赦なく浴び、あるいは厳冬期には真っ白な雪の衣装をまといながらも平然として姿勢も表情を崩さず、ただひたすら静かに坐り続けておられる。
露座であるだけに、外からチラッとでもお顔の一部でも見えないものか…
そう考える観光客はたくさんいて、寺の周囲には首を長く伸ばしたキリンの群れが現れるが、これがどうして、なかなかガードが堅い♪
大仏がある高徳院は東に市道、西に県道とそれぞれ接していて、県道側には狭いながら駐車場もあり、修学旅行生や団体客の大型バスはここに停まるから、一段高いバスの中からだと見えるかもしれないという期待を抱くが、塀の内側には常緑樹が生い茂り、中をうかがい知ることは不可能である。
しかし、蛇の道は蛇と言うか、唯一、見える場所と言うのはあるものなのだ。
それが今朝の写真。
「のぞき見」は犯罪行為だが、まぁ、美男におわすミホトケならば、この程度はお許しいただけるのでは…と。
チラッとお見かけするお顔はどこか憂い顔?…
そうでもないか…
さすがに目元、口元はスッキリさわやか…
どうしたら世の人々が等しく平和に暮らせるのか…う~む… (いずれも東側の市道側から撮影)
下の2枚は1月2日撮影