3週間ぶりに円覚寺まで出かけて日曜坐禅会に参加してきた。
先週は左ひざに感じていた違和感が気になり、自らの意思で休んだ。
その前の週は寺側の都合で珍しく坐禅会そのものが休みだった。
三方を山に取り囲まれ、深い緑に包まれた境内の朝はそれだけで静寂が支配しているが、坐禅会場の大方丈の大きな屋根の下はさらに静まり返っていて、それだけで坐禅に打ち込む環境としてはこれ以上ないくらいである。
そういう環境のところに一歩足を踏み入れるだけで「さぁっ ! 」という気分が強まるのが自分でもわかる。
単純で分かりやすい性格だということが、こういうところでバレる。
と言いつつ、バレたって別にどうってことも無いし、そもそも誰も気にしちゃいない。
「盤珪禅師語録」のテキストが配られ、坐禅を組んだまま横田南嶺管長の提唱に耳を傾ける。
図らずもこの日のテーマは「雑念」。
坐禅をしていると、どういうわけだか次から次にくだらないことが頭に浮かんできて、それが浮かんでは消え、消えては浮かぶという具合に、まったく際限なく続くのだ。
「集中力が足らない」だの「気合が入っていないからだ」などと自分で自分を責めるのだが、責めたってどうなるわけでもない。
余計に雑念が増えるだけだ。
帰りがけに「今日もまた雑念のあれやこれやを呼び覚ますだけのために円覚寺まで来たな」と苦笑させられることもしばしばである。
何年やってもこの状態は変わらない。
だから最初に横田老師の素読を聞いて「おっ、盤珪さんはこの質問にどう答えるんだろう」とにわかに集中力が高まった。
『俗士問。起こる念を払えば、又跡より起こり、つづき、やむことなし。此の念いか様にをさめんや』
『俗士問』とあるから、質問したのはボクと同じような在家ながら坐禅をしに寺にやって来ているような人である。
『師曰、起こる念をはらうは、血を洗うが如し。始の血はをちても、洗う血にてけがる。いつまで洗らふても。けがれはのかず。此心もとより不生不滅にして、迷ひなきことを知らず、念をある物に思ひ、生死流転する也。念は假の化想也と知て、取らず嫌わず、起こるまま止むままにすべし。譬ば鏡にうつる影の如し。鏡は明にして向ふ程の物を移せども、鏡の内に影をとどめず、仏心の鏡より萬倍明かにして、しかも霊妙なる故、一切の念は其の光りの内にきえて跡なし。此の道理をよく信得すれば、念はいか程起りても、妨げなし。』
盤珪さんは雑念を払うのは血で血を洗うようなもので、最初の血は落ちても結局次から次に血で汚れるだけでムダなことだ。鏡に映る影がそのまま鏡に付着してしまわないように、鏡よりももっとキレイな私たちの心にどんな雑念が湧いたとしても、心に付着するわけもなく、何の邪魔にもならず、問題ない、と言っている。
ムフフ…
日本における臨済禅の「中興の祖」とされる白隠禅師はこの盤珪禅師の教えに飽き足らず、己をもっと厳しく律しながら自らの力で雑念を抑え、雑念が起きないような努力をして悟りの道を切り開くべしと説いたそうで、横田南嶺管長はどちらでも自分に合った方法を取ればいいと寛容である。
この日は提唱の後、坐禅だけの時間になった際に、この話を反芻しつつあれやこれや自ら進んで雑念を迎えに行き、浮かんでは消え消えては浮かぶウタカタの如き雑念を何のハバカリも無く楽しんだのでありました。
雨模様の中、午前8時の開門を待つ日曜坐禅会の参加者=鎌倉・円覚寺
見出し写真は坐禅会場の方丈の勅使門とアジサイ
アジサイが幅を利かせているがどっこいこちらはヤブカンゾウ=居士林
ヒオウギ?=居士林
ウツボグサがまだ咲いていた=居士林
居士林の裏、龍隠庵の上り口の脇の崖にミニチュアのようなヤマユリが…
去年は1輪花を咲かせたが、栄養分の期待できないところで芽生えてくること自体が不思議
これはお茶の花に似ているが…そもそもこんなに大きな木に育つ?=黄梅院