先週は宇都宮の姫のところに出かけてしまったので2週間ぶり。
今回も横田南嶺管長の「伝心法要」(断際禅師)の講釈を聞きながら座る。
「法身即ち虚空、虚空即ち法身」
虚空とは何か。大宇宙の隅から隅まで、この広大な空間をひっくるめた一切が虚空である。法身(仏)もまた一切を包含する大きな広がりのことであり、法身と虚空は別々に存在するものではない。
人は生まれながらに仏の心を持って生まれてくる。しかし、それに気づかないので「心のより所」であったり、「有り難い教えがないものか」などと思いを巡らし、どうにかしてそれを手に入れようとする。人によっては、求めるものが宝石であったり地位であったりもする。
いつのころからか、仏像というものを作り始めたが、これは「例えばこういうものである」と一般の人々に例示したものにすぎない。だから、穏やかに、おおらかな姿かたちをしているわけです。本当の意味の仏ではない。
何物にもとらわれない心、一切を無にしてあるがままを受け入れて暮らしていくことが仏の心なのです。その心をみなさんは持って生まれてきている。
というのが講釈の趣旨でありました。
禅の修行をする坊さんが勉強する書物の中の、それもほんの一部分だけれども、横田管長の講釈を通じて触れてみると、「うーむ、なるほどそうなのか」と思えてくる。
今のところ新鮮なこともあって、砂地に水が沁みとおって行くように「へ~ぇ」とか『ほ~ぉ」が多い。分かったような気持ちにさせられてんですな。
しかし実際は、そう簡単ではない。
さすがに夏休みが終わったせいか、参禅する人の中に若い人の姿が減った。中年以降の男が多い。
大方丈の大きな屋根に降る雨が四方のたたきを間断なく打つ。その音を聞きながら座っているのも悪くない。
大方丈の裏手から正伝庵方向を望む
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