予報では最高気温は10度に満たず、4、5度だというから真冬に逆戻りではないか。
昨日は一日雨が降り続き、気温も低く、こんな日は晴耕雨読とばかり、日がな一日炬燵に潜り込んでいた。
外には一歩も出なかったし、炬燵から出るのはトイレと食卓につく時と風呂だけ、という自分でも炬燵の中に根を生やしてしまったのではないかと思うくらいであった。
でも、怠惰とは違う。
ラジオのFM放送で音楽を聴き、1度もうたた寝をすることなく新聞と本を読んで過ごしたのである。
思えばつまらない会議などに時間を取られることもなく、腹を立てたり我慢したり、イライラしたりすることもなくなって、雨が地面をたたく音に耳を傾けたり、芽吹いたばかりの新緑が雨に打たれて一層瑞々しくなっているさまをじっと見つめていると、それはそれで大変結構な一瞬である。
窓の外に霞むヤマザクラもまだしぶとく花を宿しているものもあって、かすんだ山の中にぼぉーっと白い塊を浮かび上がらせている。
少し前なら、何も労働しないで日がな一日いると罪悪感が漂ったものだが、そんな感情すら浮かばない。
労働は尊い。されば労働だけが尊いのかと言えば、さにあらず。
それは価値観のひとつにすぎないから、特段拘泥しなければならない理由なんぞ毛頭ない、と思っている。
他にも大切なものがあるはずである。知的高等動物のヒトが労働だけのために次から次に誕生しているわけではないだろう。
逆説的にいえば怠惰にだって価値は見いだせるはずである。
飛躍するかもしれないが、殺人だって価値を見出すことが可能なんだと思う。
その殺人者を生み出す社会的背景を浮き彫りにするということがあれば、そこに社会の歪なり、抜きがたい人間不信、ひいては人間とは何か? といった大事な事柄が浮かび上がるはずである。
金貸しのばあさんを殺したラスコーリニコフはこの地球上にいくらでも存在するのではないか。
動機はそれぞれに異なってはいても、社会を映し出す鏡として、あるいは人間だからこその殺人事件は繰り返される。
人びとがそういうものにあまり関心を払わなくなっているだけのことだ。
だから、無益の象徴と言われる戦争にだって価値はある。
如何に無益で馬鹿馬鹿しいものであるか。たくさんの人が命を落とし、傷つき、たくさんの苦しみがもたらされることか。経済的な損失だって計り知れない。
それを強烈に体験するから、すればこそ平和への努力が生じる。国と国との関係に工夫が生まれる。経済を膨らませ、貧困を抜け出して豊かな生活が送れるような国際的な協力関係が生まれる。
そんな価値を忘れてしまったかのような風潮が、この極東の列島を覆い始めてはいるが、価値は価値である。
労働に対する価値観をひとまずしまい込んだ身である。
しまい込んで… あるいはうっちゃって9カ月余り。
さて、次はどこへ向かおうか…
わが家の庭から その1 アネモネと遅咲きのスイセン。左上の青い小花はワスレナグサ
その2 写真に撮りにくいクリスマスローズ。赤く写っているのはチューリップ
その3 山採りのニリンソウの群落 ? が出来上がった。ピンクはツバキの花びら
その4 雨上がりのガーデナーズグローリー(つるバラ)
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