一龍斎貞水の「鉢の木」。
劇場に坐って講談を聞くのは初めてである。
何を血迷ったのか。
去年の10月頃、たまたま鎌倉芸術館の前を通りかかってポスターを目にした。
うたい文句は「“いざ鎌倉”の『鉢の木』。人間国宝・一龍斎貞水」「講談界でも演じられることの少ない演目」などなど。
このうたい文句に魅かれたのである。
第1に、講談師に人間国宝がいたという新発見(講談界では初めてだそうだ)。第2に、いざ鎌倉を聞いてみたくなったこと。第3に講談界でも演じるのが難しいとされる演目である、という点。などなどが重なって、その話術とやらを拝聴する気になった。
「鉢の木」は能の演目としては知られているが、これを口先三寸で演じるのである。
旅の僧が奥州からの帰り道、雪中で難儀し、一軒家に宿を乞う。主の不在を理由に一度は断られ、雪道をさまようが呼び戻されてヒエ・アワの粗末な粥で人心地をつき、藁を敷いた粗末な寝床に入っていると、この家の主人が冷え切った体で戻ってくる。寝床から主人の様子をうかがううち、少ない粥を馬にも分け与えるさまを見て大いに感心する。起きて行って挨拶をし、しばらく話をするうちに、囲炉裏にくべる薪がなくなってくる。主人は旅の僧に寒い思いをさせまいと、大切にしている鉢植えの木を切って薪の代わりに囲炉裏にくべる。この旅の僧は前の執権北条時頼で、鎌倉に戻った時頼は家臣の青砥藤綱に褒美をとらせるよう命じる。しかし、藤綱は落ちぶれた武士の真意を確かめようと「鎌倉が攻め込まれる危機にある」と偽の情報を届けると、その落ちぶれた武士がやせ馬に打ちまたがって「いざ鎌倉 !」と、はせ参じてくる。これを見た藤綱は件の武士に下心がないことを知り褒美をとらせる、という話である。
これを延々45分、しゃべり続けるのである。落語のように客を笑い転げさせるわけでもない。血沸き肉躍る武勇伝でもない。背筋の寒くなる怪談話でもない。冒頭、講談というより講釈と言った方が良い演目です、と貞水自身が語った通りだった。
これを客を飽きさせずに聞かせてしまう話術はたいしたものである。
この「鉢の木」を語れるのは今では貞水しかいない、というのもうなずける話、かと思った。
人間国宝たる所以か。
もっとも客の側にも聞き込んで行く一定の集中力と時代背景に対する一定の知識・理解力も必要な気がする。
講釈と言われる所以で、次代に引き継いでいくのは大変だなあと感じる。
歌舞伎や能は目で立ち居振る舞い・所作を見、衣装の華やかさや見事な色彩を楽しみ、耳で音声と楽曲を聞きながら、芝居の筋を追う。贔屓役者に夢中になる。これなら楽しみ方は一通りではない。
話芸は口先三寸にのみ集中することが求められる。笑いもない、手に汗握る場面も乏しい「講釈」はつくづく難しい芸である。
しかし、聞き手を一気に引きずり込んでゆく実力はたいしたものである。
昨日の円覚寺・黄梅院。マンサクの黄色が冷たい空気に色を添えている。
同・居士林の紅梅の蕾。おそらく午後には先駆けの一輪になったはずである。
同・仏殿脇の白梅。春は間近のようである。
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