平方録

沖縄の心

沖縄県那覇市にある琉球王朝時代の首里城に登ったことがある。
城と言ったって、宮城のような代物でとても戦のための防備を重ねた血なまぐさいものと言うより、訪れる外交使節を丁重にもてなすための宮殿と呼んだほうが当たっているような佇まいである。

城の一番高みに登って辺りを見回すと、ほとんど四方と言ってよいくらいに青い海が遥か彼方にまで広がっている光景が目に入る。
見知らぬ旗を掲げた船が近づいてくれば、すぐに分かるほどである。
台風と言う猛威は毎年襲ってくるが、それ以外は寒さを知らない南の楽園だったんだろうことが、良く理解できるのである。

そうした環境の中で、独立王朝は中国や日本と接しながら、微妙なバランスを保って平和な暮らしを営んできたのである。
それが1609年の島津藩による武力侵略以降、植民地化され、今日に至っている。
わけても70年前の戦争では戦場となり、住民に多くの犠牲者を出したことは、決して忘却の彼方の話ではない。
その植民地並みの扱いはいまだに続いているというべきだろう。

強大な軍事国家のために、小さな島のあちらこちらに広大な軍事基地を提供し、というより強制徴用され、その異常な風景の中で暮らす地域の人々にとって、軍事基地は一刻も早く返還してもらい、自分たちが豊かに暮らすために使いたいと願い続けてきている存在なのである。
そんな願いとは裏腹に冷戦時代に基地機能は強化され続け、冷戦がとっくに終了した今もその名残は続いているばかりか、一つを返す代わりに新しいものを作らせろという要求に、政府は唯々諾々と従っているのである。

沖縄の気持ちなど、どこ吹く風なんである。
だから、辺野古に新しい滑走路を造ることに地元住民も県民もこぞって反対の声を上げ続けているのだ。
そして建設をやめようとしない国に対し、クリスマスの25日、沖縄県は自らが下した埋め立て承認取り消しの効力を止めた国の決定を取り消すよう求める訴えを、裁判所に起こしたのである。
国は既に、知事が下した埋め立て承認取り消しの撤回を求める代執行訴訟を起こしていて、追いこまれての提訴である。
中央政府と地方政府が衆人環視の中で殴り合いに入ったのだ。同じ階級の殴り合いとは明らかに違っている。とても尋常な姿とは言い難い。

翻って、わが郷土・神奈川。
ここは沖縄に次ぐ全国第2位の米軍基地県である。
国道16号沿いに海軍横須賀基地。日本1の貿易港・ミナトヨコハマの一番いいところに位置している広大な瑞穂埠頭は陸軍が接収を続けている。さらに北西に向かうと空母艦載機の訓練場である海軍厚木基地、そしてベトナム戦争の兵站基地となった陸軍座間キャンプ、同相模補給廠と広大な基地施設が広がっている。
ちょっと前までは、これらの基地に隣接して弾薬庫が点在していた。今でも基地内には残されているが、天地を揺るがして爆発事故を起こしたこともある。

うさぎ小屋にしか住めない日本人を尻目に、広々とした緑の芝生の中に白い平屋の家が点在する米軍住宅が続く地区の、金網に仕切られた間の道路を市電が肩身を縮めて通ったのも、たかだか20年くらい前までの話である。
沖縄と違って、横浜市街地の接収地はだいぶ返還されてきてはいるが、一体戦後何年経っているというのだ。
それでも沖縄を思えば、新しい基地建設がないのは、よほどましである。

沖縄のとっている行動は、決してワガママではない。自分勝手ではない。
土地を返してほしい、基地をゼロにしてほしいと願いつつ、無理難題を突き付けているわけではないのだ。魂の叫びなのだ。
基地と言うものは身近に存在しなければ、その存在の過酷さは理解されない。

殴り合いを横目で眺めるのではなく、基地が必要であれば、特に新たな基地の負担は沖縄以外の本土で受け入れるしか方法はないんである。
そのことが、本土では真剣に語られていないことが、沖縄の人の心にどれだけ絶望感をもたらしていることか。
かつて事が起こる度に、同業の何人かの友人に「独立しちゃったらどうなの?」と水を向けても、微笑むだけだった。
「出来ることならそうしたい」。今でも心の奥底で、そう思っているはずである。



師走の庭に咲く黄色の「スプリンター」=横浜イングリッシュガーデン
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