午前1時半くらいにトイレに行ったのが調子を狂わせたのかもしれない。
何せ、隣で妻が寝ているから目覚まし時計は使わず“自然の眼ざめ”が頼りなのだから、時たまこういうことが起こる。
人間的なのだ。
さて、昨日に引き続きドイツの話題。
と言っても不祥事ではなくて、恩人の話。それもサッカー界の大恩人の話。
東京オリンピックを4年後に控えた1960年。日本サッカー協会は代表チーム強化のために外国人指導者の招聘を決め、白羽の矢が立ったのが当時西ドイツの指導者だったデッドマール・クラマーさんだ。
ドイツ人には珍しく小柄で、頭でっかちでしかも頭髪のはげ上がった、目の大きな人である。
失礼ながら、まるで異星人のようでもあった。
そのクラマーさんの指導のおかげで、4年後のオリンピックで日本はあのアルゼンチンを破るなどの勢いを見せ、ベスト8に進んだのである。
この試合は高校1年生でサッカー部に所属していた私もニュースで知り、いろいろな局のスポーツニュースを何度も見た記憶がある。
当時はまだ不人気のスポーツで、日本戦とはいえ、テレビ中継されていなかったか、平日の昼間で見られなかったのだろうか。多分中継がなかったのだと思う。
確かJリーグチェアマンなどを務めた川渕三郎のダイビングヘッドなどが決まった、胸のすくような試合だったのだ。
アルゼンチンに勝てるわけがない、と思っていたのが勝ってしまったのだから、喜ぶと同時にびっくりしたものである。
先日、ラグビーのW杯で日本が南アフリカに勝ってしまったような大金星だったのだ。
そしてさらに4年後の五輪メキシコ大会では何と銅メダルに輝くのである。
ハンガリーと対戦した準決勝で、日本はそれまでの選手を大幅に入れ替えて0-5で負けたのだが、試合後、クラマーさんはなぜ入れ替えたのかと疑問を呈したのである。
結果ハンガリーが優勝してしまうのだが、銅メダルどころではなかったというのがクラマーさんの感想なのである。
とはいえ、大観衆の中で、開催国のメキシコに勝って銅メダルだから、これはもう何をかいわんやなのだ。
釜本や快速ウイングの杉山が大活躍したのである。
私事でいえば、1年生からレギュラーになり、杉山と同じ左ウイングで快足? を飛ばしたこともあるのだ。
ロングロングアゴーの話ではあるが…
こうして東京、メキシコと続くオリンピックでの大躍進の素地を作ったのがクラマーさんなのだ。
東京大会の後、日本を離れるにあたって国内リーグの創設、コーチ制度の確立、国際試合の経験を積むこと、芝のグラウンドを作り維持することーなど5項目の提言を残して日本を後にしたのである。
1965年に実業団のチームが参加する日本リーグが誕生し、それがやがてJリーグに発展して行くのである。
クラマーさんの教えはインサイドキックばかり蹴らされるとか、初歩的、基礎的なものばかりで、批判もあったそうだが、ドイツ人らしく、一度決めたことはやりとおす人で、方針は変わらなかったそうだ。
裏を返せば、初歩的なことも当時は身についていなかったのだ、ということの裏返しでもあるのだろう。
そんなわけだから、我が母校から大学などに進んでサッカーをしていた先輩たちにもその練習方法が伝わり、その先輩たちによって我われ高校生のところにも伝わってきて、来る日も来る日もインサイドキックの練習に明け暮れるということもあったのだ。
基礎をみっちり身体にしみこませなさい、という教えは正しいと思う。何事にも共通する考え、指導方法なのである。
こうして「日本サッカーの父」と呼ばれるクラマーさんは、会ったこともない高校生にも影響を与えてくれたのである。“瞼の父”だが、まさに大恩人と言ってよい。
9月17日に90歳で亡くなられた事を知って、あのころを思い出し、とても懐かしく感じたものである。合掌。
近所の仏行寺の境内に咲くマンジュシャゲ
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