平方録

日本のサグラダ・ファミリア

横浜の玄関と言われている横浜駅には6つの鉄道会社が乗り入れていて、これは全国1だそうだ。
JR、京浜急行、東急電鉄、相模鉄道、横浜市交通局、横浜高速鉄道の各社。

大学時代はここから電車に乗って東京まで通学した思い出の駅である。
遊び呆けていたこともあって、夜遅く帰ってくると、電車のドアが開いてホームに降り立った瞬間、ぷーんと香ってくるのが潮の香だった。
この潮の香を嗅ぐと「あぁ、帰ってきたんだ、横浜に」と実感させられたものである。
好きな匂いだった。

駅前広場の先にある国道1号を挟んですぐ横浜港の倉庫が立ち並んでいて、さらにその先が岸壁と海だった。
加えて、運河が横浜駅の線路をくぐっているところもあって、潮の満ち引きによっては強い香が漂うのである。
気象条件や季節によっても香り方は違ったようで、冬よりも夏、しかも風のない夜などはホームが潮の香で包み込まれていたように思う。
空気のよどみ加減が作用していたようでもある。

このほかに4年間、勤めていた会社が本社屋を移した関係で横浜駅で乗り降りしたが、思えば短くもなくなってきた人生の中でこの駅を毎日利用したのは10年に満たない。

この当時の駅舎は現在の駅ビルと違って、庇を大きく広げた、角ばった平屋のとても天井の高い堂々たる建築物で、外壁には駅につきものの大きな時計がよく見えるように設置されていた。
1928年(昭和3年)の開業である。以来かどうか定かではないが、横浜駅ではいつも何らかの工事が行われていて、落ち着かない駅である。
わけても2004年に横浜高速鉄道みなとみらい線が開通して、東急東横線が高架ホームから地下にもぐり込む工事に際しては、乗客の通路があっちに移ったりこっちに動いたり、めまぐるしく変わり、おまけに鉄板か何かを張った仮の床でぎぃぎぃと音がしたり、板塀に囲われた狭いところを通されたり、迷路のような状態が数年間にわたって続いた。

おまけにJRの東海道線や横須賀線、京浜東北線の直下で、電車が走っている時間もトンネル掘削の工事が続いていたのだから、一歩間違えば大惨事が起こりかねない複雑な難工事が続いていた。
よく事故が起きなかったものだと感心する。
現に、地下に潜って工事現場を案内されたことがあって、現場責任者は、列車を止めず、しかも利用客の安全を考えながら進める工事の難しさを、しきりに強調していたことを思い出す。

そして現在は西口側の駅ビルが解体されて、新たなビルの建設が始まった。ホームの上には東西に通じる広場を設けて自由に通行できるようにもするらしい。
その工事がいつ終わるか、よく知らない。「日本のサグラダ・ファミリア」と呼ばれる所以である。

ところで、3、4年も前のことになるのだが、横浜駅の遺構というのが、旧東横線高島町駅わきのマンション工事現場から見つかった。
ちょうど現在の駅舎から500メートルぐらい南に寄った国道1号の高島町交差点ところで、今からちょうど100年前の1915年8月15日に開業した2代目の横浜駅の遺構である。
赤レンガを積み上げた頑丈な基礎が発掘され、貴重な遺構として現場でそのまま保存されている。

2代目は1923年9月1日の関東大震災にあって焼失し、わずか8年という短命さで、「幻の駅」と言われているそうである。
面白いことに、この遺構のすぐ脇からというか、同じ場所から横浜共同電燈会社裏高島発電所の「第二海水引込口」の水槽部分と導管部分の交差する部分の遺構も発見され、2つの歴史遺産が重なった珍しい遺構なんだそうだ。
ちなみに横浜共同電燈会社は1890年(明治23年)の設立で、日本初の電灯供給が始まった東京日本橋、そして神戸、大阪、京都、名古屋についで全国6番目の開業だそうな。
ガス灯が灯ったのが横浜が日本で初めてだったのはよく知っていたが、電灯が6番目だったというのは初めて知った。

この遺構を踏んで大学にも通ったし、一時期移転していた本社に通うために横浜駅からこの遺構の上を歩いていたのだと思うと、何やら不思議な感じにとらわれるのである。
3代目も取り壊されて駅ビルに生まれ変わって久しい今、明治、大正は無論のこと、昭和も遠く成りにけり、ということか。






国道1号の高島町交差点を気にある2代目横浜駅の遺構。3枚目の写真の左下に見える柵の中に発電所の遺構がある。
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