平方録

自由人2年生の戯言

42年間、いや、3つの時から幼稚園に通い始めて以来、毎日毎朝、63年間も決まった時間に出掛けて行く生活を続けてきたわけだが、その義務を負わなくなって早1年が過ぎた。

言ってみれば、好きなことを好きな時間に思う存分やれる「自由」を手に入れたわけである。
しかし、悲しいかな身体の髄までしみ込んだ習い性というものは一朝一夕に消え去るものでもなく、頭では自由なのだと思っていても、何か心の奥底に引っ掛かるものがある。
怠けているようにも思えるし、いささか手持無沙汰でもある。職業柄、社会正義の実現などと気負ってもいたから、そうした感覚はひとしおである。
バトンは後輩に託したのだ、渡したのだ、と言い聞かせる1年であったと言ってよい。

目の前に起きている、これまでとは全く違う次元の、権力者たちを縛るはずの憲法が、その権力者たちによって無視され、途方もないような三百代言を持って勝手に解釈されて、挙句に踏みにじられようとしている一大事件にもかかわらず、今までの武器を取れないもどかしさ。
憲法違反をこのまま見過ごして良いはずがない。
それは特定秘密法の制定まで遡るのだが、切歯扼腕とはこのことである。

おかしな動きには、はっきり「おかしい」と言い切る時期やその内容が、いささか後手を踏んでいたのではないか、とさえ思うのだ。寝覚めの悪いことこの上ない。
本質を見極める俊敏な反射神経と、どんな圧力にも屈しない強い意思と粘り強さで世論をリードして行かなければ、いつ出番だというのか。存在意義そのものが問われてしまう。
なぁあんてことを、ついつい考えてしまうのだ。
バトンは渡したはずなのに…。

心の片隅に執着する心が残っているのである。
場面は変わった事が受け入れ難い。とはいえ、己を取り巻く状況は既に、鴨長明の鴨川の水の流れと同じなのである。
曰く、行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…、と。
そのことを、頭ではわかっているつもりでも、なかなか割り切れないでいるのだ。
この1年を振り返ってみれば、何とか執着心を消して、別な歩みを始めようともがく日々でもあった。

金剛経という経典に「応無所住而生其心」という有名な一節がある。
執着する心を捨て去って、何物にも囚われることなく、与えられた境遇に従って有るがままに生きる、ということだそうだ。
禅の教えのひとつで、円覚寺の横田南嶺管長の口からもこの言葉が出てきたことがある。
しかし、これだって頭では「そうだよな」と思ってみても所詮はぼんくらな身である。そうした気持ちに至るには、なかなか骨の折れることである。

毎週日曜日の朝に円覚寺に出向いて短い時間でも座禅をして、管長の話を聞きながら己の位置を確かめ、心の平衡を保つよう積み重ねてきた1年間だったと言ってよい。
ぼんくらでも1年経てば些かなりとも感じるところはあるものである。
とはいえ、そう簡単に解脱し、煩悩と業の束縛から逃れることができるものでもなさそうである。
あまり気負わず、腹も立てず、与えられた所に従って、然あるがままに暮らしていくことが当面の目標、といえば目標なのである。

自由人とやらになったものの、人間というものはあれこれ考え、思いを巡らせなければ生きづらい、面倒くさくて厄介な生き物なのだなぁと、つくづく思うのである。
でも、しばらくは人間をやるのだから、そこも然あるがままに受け入れなくてはなるまい。







どうです、このフェラーリ!買っちゃったんだよね、山形で1980万ドル!! 嘘です。万ドルじゃなくてただの円。でも立派なラジコン。山形出身の奥山清行がフェラーリをはじめ欧米の名だたる自動車メーカーでデザインを手がけたうちのひとつがこのスーパーカー。山形土産なのだ。
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