梅雨だからと言えばそれまでだが、音を立てて降るほどの雨である。
7月に入って3日連続となる。
去年は空梅雨のような感じで、梅雨明け前でもしばしば夏空が広がったから、今年の梅雨はひとしおの感がある。
日本のはるか南方海上で台風が出来て、北上を始めたようだから、いずれ接近するか上陸するかするだろう。
停滞中の梅雨前線と競合して大きな被害が出るに違いない。
この季節の漢詩一篇を見つけた。
「虞美人」 南宋 李(火篇に日の下に立のつくり)
春花秋月何時了
往時知多少
小楼昨夜又東風
故国不堪回首 月明中
雕欄玉砌依然在
只是朱顔改
問君都有幾多愁
恰似一江春水 向東流
春花秋月いずれの時にかおわらん
往時 知んぬ多少ぞ
小楼 昨夜 また東風
故国 こうべをめぐらすに堪えず 月明の中
チョウランギョクセイ 依然としてあり
ただこれ 朱顔のみ改まる
君に問う すべて幾多の愁いか有ると
あたかも似たり 一江の春水の東に向かって流るるに
春の花、秋の月、季節ごとの良い眺めは、いつになっても尽きないだろう。
それにひきかえ、この人間界では、昔からいったいどれほどのことどもが、起こっては消えていったのか。
この小さな高楼に、夕べもまた東風が吹き寄せた。
はるか東方のわが故郷は、この月明りの中、ふり返ってみるに忍びない。
彫刻をほどこした欄干、宝石をちりばめた階段、豪華な宮殿は、今もそのままだろう。
ただ私の若やいだ顔だけが、老け、やつれてしまった。
人が私に、いったいどれほどの悲しい思いをしているのかと尋ねたら、
それはちょうど、長江いっぱいの春の水がこんこんと東に流れるように、あふれてやまないのだ、と答えよう。
(訳・石川忠久)
作者の李という人は南唐の最後の君主で李後主と呼ばれ、芸術家肌の君主だった。宋に下り2年間の幽閉生活ののちに没した人物だそうだ。
物悲しい詩情の所以である。
漢詩と言うのものは、はつらつとしてみなぎる気概や美しい風景を愛でて詠んだものは気宇壮大で、しかも心に染み入る、なかなか素晴らしいものが少なくない。しかし一方で、こうして人生の悲哀を詠んだ作品にむしろ佳品が多い。
滅びゆくもの、消えゆくものへの切々とした感情の発露と言うものは、どうしたって心にしみてくるものだ。
日本の美意識を貫くものも、滅びの美学である。無常とも置き換えられる。
昨日夕方近く、陽が差してきたので、ここぞとばかりバスに乗って雨上がりの新江ノ島水族館に行ってきた。
いつもは自転車か徒歩なのだが、路面がぬれていたことと、時間の節約である。
海を見ようと思っただけで、年間パスポートを持っているので、水族館は付け足しである。
巨大水槽があって、この中をゆったりと群詠するさまざまな魚を見ているのが好きである。
マイワシが数百匹、数千匹かもしれない、常に形を変えながらひと塊りになって泳ぐところなどは、さしずめ一匹の巨大生物のようである。
それをじっと眺めていた。
と、異変に気付いた。
群れの蔭から現れたイワシよりも数十倍大きな魚が口に銀色の物体をくわえている。
辺りに鱗片が散って、キラキラと光って水に揺れていて、きれいである。
くわえているのはイワシらしい。一部を飲み込みそこなって落としたら別の魚が、それに群がって争奪戦を繰り広げている。
小さな男の子が、イワシをくわえた魚を指をさして「あ~、あ~っ!」と言いながら、魚の動きと一緒に行きつ戻りつして驚いている。
何かの拍子に、群れからちょっとばかり離れてしまったのを、たまたま腹をすかせた奴がこれ幸いと襲ったに違いない。
それにしても一瞬の出来事で、何度か、この水槽の前に立っているが、こういう光景は初めてである。
油断のならない世界を見せつけられた。
雨空はしばらく続きそうである。
大水槽のマイワシ
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