室温は21.3度あり、2階のベランダを開け放つと、外の空気はそれより暖かい。そのまま開け放しておくことにする。
10月下旬の午前4時の気温ではない。でも、暖かいのは大歓迎である。
姫の妹君は昨日が誕生予定日だっのだが、まだ羊水の中が心地よいと見える。
もっとも、予定日と言ったって本人の意思を確かめたわけでもなく、こちらが勝手に決め込んでいるだけだから、日にちそのものに特段根拠があるわけではない。
生まれてくれば楽しいこともあるが、辛いこともある。姉君も学校に通いながら待ちわびているだろうが、急ぐことはない。
じじいの一人暮らしが長引くだけの話だ。
さて、新聞を読んでいて、ふと思いが至ったのだが、「ここには限られたものしか来られない。重圧はあるが、楽しみたい」というコメントに目が止まった。
メジャーリーグのワールドシリーズを前にしたニューヨークメッツの監督テリー・コリンズの言葉だ。オリックスで監督に就いたが、成績不振から2年足らずでクビになっていて、日本とも縁浅からぬ監督である。
同じような言葉をサッカーの日本代表などの口からも聞かされることがある。
果たして「重圧」と「楽しむ」はそもそも両立するものなのか。楽しむようなことをしていたらスキが出来てしまうのではないか? どういうことなのだろう、と言う思いが立つのである。ホンマかいな、と言う気分である。
来し方、わが身を振り返ってみれば、重圧のかかるような状況に置かれ、何とかこれを突破しようともがくこともしばしばだったが、その時に、その打開の努力を「楽しむ」などと表現しただろうか。表現しえただろうか。
わが身を置いてきた場所が、コリンズの立っている場所と違うことは、就いている職業からしても違うのは当然だし、注目の度合いなど比べるべくもないが、「重圧」という観点からみれば、いったいどれほどの違いがあるというのか。
「ここには限られたものしか来られない」と言い放っているところが鍵なのか。
この言葉には優越感が滲みでているように感じられる。どうだ、ここまで来るのだって偉業なんだぜ…
止めておこう。このまま筆を進めると、ケチの深みにはまって行きかねない。
コメントを気にした自分の心の中だけを覗くことにする。
「重圧」について振り返ってみれば、突破することだけで精いっぱいだった自分がいたのは覚えている。
よしんば首尾よく重圧をはねのけて目標を達成した時などは、確かに達成感はあったが、一つのことが終わればすぐ次。
否応なしともいえるくらいに、次から次へと重圧のかかる課題が目の前にあったのである。
職業柄と言ってしまえばそれまでだが、そのために家族や友人たちとの約束も何度反故にしてしまったことか。
ただ、これは職業の種類によってもたらされるのではなく、どんな仕事に就いていても、活計を得て暮らしていく限り、なにがしかの重圧と言うのはどこにでも存在するはずである。
同僚たちと酒を飲むような機会に、たまたま昔話にでもなれば、成功談であれ失敗談であれ楽しんで語れたものだが、「楽しさ」とは後から付いてくるもので、とても道の途中でお目にかかれるようなものではなかったのである。
浅慮をめぐらせてみれば、コリンズの言うような重圧のかかる立場に立てなくなった寂しさと言うものが、コメントを通して我が深層心理に電波を送ってよこしたのかもしれない。
既に季節は秋なのである…
秋のバラ、人生の秋=横浜イングリッシュガーデン
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