新聞やテレビでは「床屋」は差別用語だから使えない。
「床屋談義」とか「床屋政談」などという言葉は死語になってしまったんだろう。
もっとも、語るべき政治は異論を差し挟ませない、異なる意見に聞く耳を持たない傲慢さだし、語るに値しない政治がまかり通っているのである。
使う側に差別意識などあろうわけもないのだが、そう指摘されれば使うわけにはいかない。
「飲み屋」なども同様で、差別用語なんだそうである。
40数年間飽きもせず通った居酒屋の亭主に水を向けると「何言ってんの。うちはれっきとした飲み屋だよ」「飲み屋って言わなけりゃぁ何て呼ぶんだよ。居酒屋じゃないよ、うちは!」と「飲み屋の亭主」本人がそう言っているのだが、ま、感じ方受け止め方は様々なんでありましょう。
若かりし頃は長髪で、髪の毛は伸び放題だったから、散髪などの回数も少なくてすんでいたが、長髪は次第にうっとおしく感じられてきて、特に襟足付近の髪の毛が伸びてくると、うっとおしくてうっとおしくて、大げさにいえば一旦気にし始めると気が狂いそうになり、今ではごく短く刈っている。
洗っても短いからすぐ渇く。そのかわり短髪はしょっちゅう整えておくべきなんだろうが、これがとても面倒である。
はっきり言って散髪は嫌いなのだ。「床屋」も理髪店も嫌いである。
1時間近く、じっと座って身動きもままならず、相手は恐ろしき刃物を耳元でシャカシャカ鳴らすのだから、生きた心地がしないのである。
ひと通りシャカシャカが終わると、洗面台に窮屈に頭を突っ込まさせられ、お湯を浴びせられて頭をぐしゃぐしゃともみしだかれる。
それが終わると乱暴にタオルで水気をふき取られ、背もたれを倒されて仰向けに寝かされ、息もままならないくらいに蒸タオルを分厚くかけられ、それが取り除かれたかと思うと顔中に髭剃りの泡を塗りたくられる。
ま、ここまでは何とか我慢できるというものだが、この後、もっと恐ろしいことが待ちかまえているのである。
あろうことか、シャッシャ、シャッシャという音とともに、鋭利な剃刀をなめした革にこすりつけて磨る音が聞こえ、その研がれたばかりの切っ先は、ぴたりと喉元に当てられるのである。
こうなるともう、今度こそ恐ろしさに息もできない。
理髪店のマーク。あの赤と青と白のマークはそれぞれ赤は動脈、青は静脈、白は包帯を意味した外科医の印だったんだそうである。
西洋の話だが、元々血なまぐさいところから出発しているのである。
喉元に当てられた刃が直角方向に動かされているうちはともかく、ひとたび刃の向きと同方向に動かされたらどうなるというのだ…
一難去ってまた一難。さらに難が過ぎても、次も拷問のようである。
頼みもしないクリームなんぞをこすりつけられる。それも生温かい手で顔中に延ばされるのである。
しかも、刷り込むように入念にやられる。何度も何度も温かい手を顔中にこすりつけるのである。
若い女の子の手ならまだしも、それ以外の手が顔中を何度も何度もまさぐるのである。何ともおぞましいことである。
昨日の「床屋」は下手だった。
行きつけの店はないから、適当に行くのだが、ハサミで髪を刈るだけを頼む。
後は一切頼まない。したがって1000円理髪が賑わっている中で、そこは900円なので文句も言えない。でも、それでいいのだ。たかが散髪である。
トラ刈りもファッションと思えばどうってことはない。
第一、自分からは見えないんである。
育苗中の「流鏑馬」。花弁がだいぶ開いてきて、形がきれいに整ってきた。開くにつれて赤色が退潮してピンク色の度合いが強まってきた。甘くさわやかな香りは依然として健在。こういう花を咲かせるのか。今年は一輪だけだが、来年以降が楽しみである。
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