投票所内に有権者は自分1人。受付の女子高生数人は真剣な眼をしていたが、3人の立会人のうち男2人は私語を繰り返し、緊張感はまるでなし。
それもムべなるかな。
知事選は現職に各政党が相乗りし、共産党推薦の候補が1人立候補しただけの無風ぶりである。
県議選に至っては定数2のわが選挙区は自民と民主の現職が2人立候補しただけで、無投票当選。
これでは有権者の選択の余地などありはしない。
最初は投票に行くのはよそうと思っていたが、みすみす権利を放棄するのも癪だから行って、こういう選挙になったことへの「抗議票」を投じてきた。
投票用紙に過去の立派だった知事の名前を書いてきたのである。
馬鹿にされた有権者のせめてもの抵抗である。
かつて、5選もした知事の引退を受けた後の知事選で共産党を除く既成政党と連合が一緒になって協議会まで作って白昼堂々と候補者選びを始めたことがある。
このときに民主主義にあるまじき行為、有権者の選択の余地を奪うのか、まさに談合じゃないか、おかしいじゃないかと猛烈に批判を展開した記憶が蘇る。
その時以来、各党相乗りは神奈川における知事選の定型のようなものになってしまった。
オール与党の県政だから、知事も議員もたるみきっている。逆に見れば県民はなめられ切っている。
オール与党の御輿に乗ってしまった知事は気楽なものである。
議員にしたって行政への批判なんか出やしない。
当局が提出する議案などは、提出前に各政党の重鎮たちに示して賛同を得ておいてから提出するから、議場での議論なんてありえない。
県議会など無いのも同然である。
なあなあでやるから、当局は楽だし、議員だって日常的に県職員から都合のよいレクチャーを受けるだけで、県政について特段の勉強をする必要もないから楽チンである。
緊張感なんて言葉は神奈川知事、県議会、そして県政当局にとってもはや死語である。
しかし、神奈川だけが一人ひどいのではないようである。
全国的に見ても政務活動費の不明瞭問題やら行政に対する議会のチェック能力の欠如というのが指摘され続けてきている。
行政へのチェックが出来ないのだから、行政への注文は一部の有力後援会員が議員に向かって愚痴るようなつまらないドブ板の些細な問題ぐらいしか語られない。
行政にとっては、そんなドブ板的な要望はお茶の子さいさいで処理できるし、あまつさえ恩に着せるのであるから双方ともタチが悪すぎる。
議員の中には議会で何を質問したらよいか、行政の職員を頼りにする輩は昔から少なからず存在した。何をかいわんやである。
政策立案なぞはどこの世界の話だ、ということになってしまう。
主権在民とか有権者などという概念はまったく欠落してしまっている。
こうした議会制民主主義の崩壊を見逃してきている責任の一端はマスコミにある、と言うべきだろう。
特に地方議会のチェックを重要な役割にしている地方のマスコミの責任は逃れられない。
地域住民の隅々まで行き渡っている地方のマスコミの威力は改めて指摘するまでもないことである。
そこが寝てしまっていては問題が浮き彫りにならないばかりか、民主主義の破壊に手を貸す犯罪行為と言っても良いくらいだ。
こんなことでは有権者の政治に対する関心は薄れていくばかりだ。
関心を呼び覚ますために、議会や行政で何が起きているのかを正確に伝えてもらわなくてはならない。
「しがらみ」などと言う単語を持ち出してはいけない。
権力監視こそマスコミの最大にして最重要の使命じゃないのかね。
地方の権力監視は地方のマスコミがきちんとやってくれなくては困る。どこかで正常な緊張感が高まれば、それは必ず伝わって行く。
地方がゆるければ中央にもそのゆるさは伝わる。逆もまたしかりである。
「自民一強」の政治が暴走気味なのは、そうした地方の緩さとも無縁でないとしたら、地方のマスコミの役割は一層重要である。
世の中の歪やほころびが目立つが、マスコミよお前もか、では情けない。
つくづく情けないと思う。
新緑が目立つようになった円覚寺境内。裏山にはヤマザクラがまだ残り、フランス人の団体客のフランス語が飛び交っていた
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