日本の多くのお家に機織り機があったのは?
「鶴の恩返し」には、昔々の民話の時代、とありますが…
最初は自家用として織られ、縞模様が多かったのでしょう。
肥後絣も、御多分(ごたぶん)に洩(も)れず 一般農家などで
織られていた、肥後木綿から改良されたものです。
その後、久留米絣の影響を受け、大正、昭和初期には多数の
機屋によって、盛んに作られていたそうです。
素朴で強いので、男女問わず野良着など日常着として
需要が多かったのだそうです。
肥後絣の見分け方は表柄が立体的で裏面に糸筋が
出ているので分かります。(三枚目のお写真)
久留米絣は表も裏も同じ様な柄をしていますよね。
〔正藍を原料にして染めた藍染めの糸で織り上げる肥後絣は洗うほどに色が冴え着やすくなる良さがありました。昭和10年前後は30有余軒の織元がありましたが、最後は当社一軒だけになり、県の伝統工芸品の指定を受け井桁や亀甲など古い伝統の20数種の柄を守ってきましたが昭和57年には織物業より撤退し、やむなく生産を中止致しました。]
と熊本市観光協会発行 ふるさと「史跡と風土をたずねて」で
紹介されています。
その一軒とは川尻町の宮崎染織物さんです。
その織元の娘さんがお店にいらしたとき、私の肥後絣を見て、
とても懐かしそうに、「その柄で遠足に行く時、スカートを作って
もらった」とおっしゃいました。
幻の布になった今ではとても贅沢なことですね。
では、私の愛しい肥後絣のコレクションをどうぞ!
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