キトラ古墳は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳です。石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められています。二段築成作りの古墳で小高い阿部山の南斜面に位置しています。
名称のキトラは古墳の南側の地名「北浦」がなまってキトラになったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあたるため、四神のうち北を司る亀(玄武) と西を司る虎(白虎)から「亀虎(キトラ)」という説など色々な説があります。
キトラ古墳は7世紀末~8世紀初めに造られたと推測されています。この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなりました。
天武天皇の王子である高市王子、高官であった百済王昌成、古墳周辺一帯が阿部山という地名であることから右大臣の阿部御主人など、色々な人物が想像されていますが被葬者は未だに判然としていません。
文化庁が2003年より石室内調査を開始。その結果壁画はそのままにしておいてはやがて崩れてしまう極端なもろさであることが分かったため、この壁画を守るため2004年8月から日本で初めての本格的な取り外しを行いました。取り外した壁画は細心の注意を払って修理、強化処理を行い保存管理しています。古墳そのものは石室と同じ石材でふさぎ埋め戻しました。
(飛鳥歴史公園ホームページより)
名称のキトラは古墳の南側の地名「北浦」がなまってキトラになったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあたるため、四神のうち北を司る亀(玄武) と西を司る虎(白虎)から「亀虎(キトラ)」という説など色々な説があります。
キトラ古墳は7世紀末~8世紀初めに造られたと推測されています。この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなりました。
天武天皇の王子である高市王子、高官であった百済王昌成、古墳周辺一帯が阿部山という地名であることから右大臣の阿部御主人など、色々な人物が想像されていますが被葬者は未だに判然としていません。
文化庁が2003年より石室内調査を開始。その結果壁画はそのままにしておいてはやがて崩れてしまう極端なもろさであることが分かったため、この壁画を守るため2004年8月から日本で初めての本格的な取り外しを行いました。取り外した壁画は細心の注意を払って修理、強化処理を行い保存管理しています。古墳そのものは石室と同じ石材でふさぎ埋め戻しました。
(飛鳥歴史公園ホームページより)