インターネット大阪再発見!神社めぐり「屯倉神社」より
江戸時代は河内国丹比郡依羅三宅天満宮と称していたが、明治に入り屯倉神社と称するようになり現在にいたっている。屯倉(みやけ)神社となっていますが、 全国神社名鑑(昭和52年史学センター発行)には屯倉(とんそう)神社とあった。
「屯倉」とは広辞苑によると「大和朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉。 転じて朝廷の直轄領。官家・屯家・屯倉・三宅などとも書く。とんそう」とあり日本書紀の仁徳天皇43年や皇極天皇元年の項に「河内国の依羅屯倉‥‥‥」とあるようにこの地は河内国丹比郡依羅屯倉と呼ばれていたようである。
比較的近くに住みながらまた枝垂れ梅が見事だと知りながら、 今まで訪れたことがありませんでした。近畿地方に春一番が吹き荒れた翌日、 この日は昨日とは打って変わってカメラを持つ手が凍えそうな一日でした。訪れる人も少なく見頃の枝垂れ梅を、少々寒かったですがゆっくり撮ることができました。
先ずは神社と枝垂れ梅の雰囲気をUPします。
近鉄南大阪線河内天美駅から近鉄バスが出ていますが、1時間に1本しかありません‥運動がてら30分位かかりましたが歩きました。
次回は枝垂れ梅をメインにUPしたいと思っています。
江戸時代は河内国丹比郡依羅三宅天満宮と称していたが、明治に入り屯倉神社と称するようになり現在にいたっている。屯倉(みやけ)神社となっていますが、 全国神社名鑑(昭和52年史学センター発行)には屯倉(とんそう)神社とあった。
「屯倉」とは広辞苑によると「大和朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉。 転じて朝廷の直轄領。官家・屯家・屯倉・三宅などとも書く。とんそう」とあり日本書紀の仁徳天皇43年や皇極天皇元年の項に「河内国の依羅屯倉‥‥‥」とあるようにこの地は河内国丹比郡依羅屯倉と呼ばれていたようである。
比較的近くに住みながらまた枝垂れ梅が見事だと知りながら、 今まで訪れたことがありませんでした。近畿地方に春一番が吹き荒れた翌日、 この日は昨日とは打って変わってカメラを持つ手が凍えそうな一日でした。訪れる人も少なく見頃の枝垂れ梅を、少々寒かったですがゆっくり撮ることができました。
先ずは神社と枝垂れ梅の雰囲気をUPします。
近鉄南大阪線河内天美駅から近鉄バスが出ていますが、1時間に1本しかありません‥運動がてら30分位かかりましたが歩きました。
次回は枝垂れ梅をメインにUPしたいと思っています。