備後地方の歴史書、西備名区に慶長以前に姫谷に陶業があったと言う伝えてが載っている。私の推測で言うなら、文禄 慶長の役に備後国神辺城主毛利元康が朝鮮出兵している。おそらく朝鮮陶工を連れて帰ったのが始まりだろう。
姫谷焼の白磁の陶石がどこにあるか、明治の頃からさがしていたと思う。
一攫千金で探した人もいると思う。焼いて白くなる陶石がどこにあるかですが、焼かないとわからない。
ほとんどの人が焼かない白い色を探していたのです。
以前姫谷焼研究家の桑田さんが窯跡付近に白い層の粘土があり、大喜びで持って帰った。
焼いたら、茶色になった。焼く前が白でも焼いて白くなるとは限らない。
姫谷焼窯跡のすぐ隣は地名が服部になる。
服部の地名は朝鮮の名前だと思う。
朝鮮人が日本に帰化したので服部にしたのでないだろか。
織を服に作っていたので、服部にしたのでないだろうか。
姫谷焼の陶工も朝鮮人に間違いない。
姫谷焼窯跡に久しぶりに見に行った。草が背丈ほどあり、窯跡には近寄れなかった。
新たな窯跡の調査はできない。
草むらには蛇が潜んでいると思わないといけない。

焼き物をからつものとか、せとものと言う。唐津焼からきている。瀬戸焼も同じでしょう。
姫谷焼窯跡付近にからつざかの地名がある。焼き物に関係する、地名だと思われる。焼き物に使う粘土があるぐらいでしょう。