2022年1月
13日(木)曇り・風強し
二三日まえからのどが少し痛いので、花粉症がのどに出ているのかなと思い、薬を飲んでいるが思ったほど治らないので、以前病院で処方されていた風邪薬をのむ。
日記を読み返してみると、決まり事のように年末年始は風邪をひいて寝込んでいる。
時期や症状もほぼ同じ。
私の体はこの時期から花粉にも反応してくるので厄介だ。
子供だった頃、年末は臼と杵で餅をついていた。親父がもち米をつき、おふくろが手に水をつけて餅を返していた。
杵におふくろの手が当たらないかと心配していた。
その時の親父はとても大きくて、おふくろの笑顔も大きかった。
良い頃合いになると親父がつきたての大きな熱い餅の塊を臼から、垂れて落ちそうになる餅を、餅とり粉を薄くはつた板の上に放り投げ、二人で一緒になって丸めていた。
あん餅もその場で作ってくれた。丸めた餅は長い板の上でくっつかない様に間隔をあけて冷めるまで並べられていた。
いつの頃からか、餅つき機を使うようにもなった。
形はあいびきミンチを作る機械とよく似ていて、上から蒸したもち米を入れて、らせん状の回転するねじの様なもので、こねられながら移動して出口から押し出される。
私が子供の頃はちゃんと行事として各家に年末があり、正月があつた。
あの時の大きな親父と笑顔のお袋にもう一度会いたい。
あの空間に戻ってみたい。
その時の私にも逢ってみたい。子供の私はきっと目をそらすだろうけど。
正月に両親からお年玉をもらって、田岡文具店が開くのを待ってプラモデルを保雄と一緒に買ったことを思い出す。
壁に並べられプラモデルを買って、自転車の荷台にゴムひもで結わいて帰るとき、後ろの荷台でプラモデルも喜んでガタゴトと跳ねていた。
確か田宮のプラモデルは精度が良かった。
親父が東京の土産に大きな戦車のプラモデルを買ってきた。
説明書目何枚もあって、私には作ることのできないとても精巧なものだった。特にキャタピラーの部分は成功で小さなスプリングが各車輪に仕込まれ上下に動くものであった。
私ができないので親父も出てきて作ってくれたが、器用な親父でもプラモデルは苦戦したようで、最後にはあきらめてスプリングにより上下移動するはずの各車輪は接着剤で全部固定してしまった。
見た目では完成だが、当初メーカーの設計者が意図した肝のキャタピラー部分は本来の機能は全うせずに完遂した。
親父は二日間かけて作ってくれたと思う。
つららも霜柱も見なくなった。
子供のころ納屋は藁屋根で冬の寒い時には、つららが出来ていた。
冬休みには一回は雪ダルマが作れていた。
特に寒い日は、水道管も水を細く流し続けないと凍った。
裏の家とKさんの間にある坂道に雪が積もって、そりの様なものを作って滑ったことがある。
みんなどこに行ってしまったのか。
記憶の中にはちゃんと生き続けているのだが。
小学校低学年の頃だつたと思うが、女先生の指導の下に、すごく寒朝に運動場に出て、おしくらまんじゅうをしたことがある。
多分したのは一二回だろうけど、記憶の端っこに残っているのは、非日常的なの風景だったからだろう。
初めはいやいやながら従っていたが、続けているとだんだん体が温もって、みんな口から白い息を吐いていた。
ニュースでは滋賀県の雪は大変そうだ。親は子供の住む八王子や滋賀県の天気やコロナの感染者数を見ては心配したり、安心したりする。
家族で阿蘇フアームランドに泊まった時、暖房が効きすぎて、長男が寝言で「暑い、熱い・・」と繰り返していた。
翌日は雪景色で、巡回するマイクロバスにつけたチェーンの音がジングルベルのようで目が覚めた。
帰りに、レガシーのボンネツトの上にも多少雪は積もっていたが、構わずに走っていたら車の水温計が高く上がった。
原因はエンジンの上にあるターボの過給機をインタークーラーで冷やすために開けられたボンネツトの開口部分を雪で塞いで走ったためだった。
レガシーは四駆で雪道は平気なので途中何台か抜かして走ったが、長男は成人してから、雪道をあんなに抜かして走る私を変わった人だと思ったそうだ。
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