富士山頂に雪がふったようですね。
昨日の夜勤の風は冷たかった…。
富士山検定
模擬問題(歴史編)
第8問 噴出物が足柄路をふさいだとされるのは西暦何年からはじまった
一連の噴火?
①800年 ②864年 ③1083年 ④1707年
……………………………………………………………………………………
正解 ①の800年
噴火の歴史
富士山は、781(天応元)年から1707(宝永4)年の宝永の
大噴火にいたるまで、記録に残っているだけでも16~17回の噴火が
確認されている。有史以来、頂上からの溶岩流出はなく、全て寄生火山
からの流出である。最初の噴火は「続日本史」に「駿河の国の富士山が
突然噴火して熱い灰を降らし、山麓の草や木の葉を枯らした」とある
ことから、小規模なものであったと考えられる。そののち、800(延暦19)年
の延暦の大噴火をはじめとし、有史以来最大規模といわれる864
(貞観6) 年の大噴火、1707(宝永4)年には最後の噴火となる
宝永の大噴火と、3度の大噴火を迎えることになる。
延暦の大噴火
800(延暦19)年に発生した大規模な噴火。
山頂火口部をはじめ山腹各所の寄生火山から発し、数年間噴火を
繰り返して大きな被害をもたらした。
記録された最初の噴火は、同年3月14日にはじまり4月18日まで、
およそ1ヵ月間つづき、この様子は、平安時代の歴史書「日本記略」に
「山頂は真っ赤に焼け、立ちのぼる噴煙によって昼間でも暗い。夜は
火柱が天を照らし、地鳴りが雷のようにとどろく」と記述されている。
さらに翌801(延暦20)年から802(延暦21)年には2度の爆発が
起こる。複数の溶岩流が流れ出し、周辺各所に火山礫や火山灰があられの
ようにふりそそぎ、やがてこれが古代東海道の一部であった「足柄路」を
埋めつくした。古代の主要街道であったこの道は軍事用や緊急連絡用として
重要な意味をもっていたため、朝廷は代わりとなる「箱根路」をすぐさま
つくり、安全が確認されるまでのおおよそ1年間、この道を使用した。
〔富士山検定公式テキスト〕富士山検定協会著から
昨日の夜勤の風は冷たかった…。
富士山検定
模擬問題(歴史編)
第8問 噴出物が足柄路をふさいだとされるのは西暦何年からはじまった
一連の噴火?
①800年 ②864年 ③1083年 ④1707年
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正解 ①の800年
噴火の歴史
富士山は、781(天応元)年から1707(宝永4)年の宝永の
大噴火にいたるまで、記録に残っているだけでも16~17回の噴火が
確認されている。有史以来、頂上からの溶岩流出はなく、全て寄生火山
からの流出である。最初の噴火は「続日本史」に「駿河の国の富士山が
突然噴火して熱い灰を降らし、山麓の草や木の葉を枯らした」とある
ことから、小規模なものであったと考えられる。そののち、800(延暦19)年
の延暦の大噴火をはじめとし、有史以来最大規模といわれる864
(貞観6) 年の大噴火、1707(宝永4)年には最後の噴火となる
宝永の大噴火と、3度の大噴火を迎えることになる。
延暦の大噴火
800(延暦19)年に発生した大規模な噴火。
山頂火口部をはじめ山腹各所の寄生火山から発し、数年間噴火を
繰り返して大きな被害をもたらした。
記録された最初の噴火は、同年3月14日にはじまり4月18日まで、
およそ1ヵ月間つづき、この様子は、平安時代の歴史書「日本記略」に
「山頂は真っ赤に焼け、立ちのぼる噴煙によって昼間でも暗い。夜は
火柱が天を照らし、地鳴りが雷のようにとどろく」と記述されている。
さらに翌801(延暦20)年から802(延暦21)年には2度の爆発が
起こる。複数の溶岩流が流れ出し、周辺各所に火山礫や火山灰があられの
ようにふりそそぎ、やがてこれが古代東海道の一部であった「足柄路」を
埋めつくした。古代の主要街道であったこの道は軍事用や緊急連絡用として
重要な意味をもっていたため、朝廷は代わりとなる「箱根路」をすぐさま
つくり、安全が確認されるまでのおおよそ1年間、この道を使用した。
〔富士山検定公式テキスト〕富士山検定協会著から