富士と女優

美しいものを見て感性を潤いたいな。

今朝の富士

2008-11-06 12:24:21 | Weblog
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飛行機雲と今朝の富士

2008-11-06 12:12:40 | Weblog
秋の気候は飛行機雲が発生しやすいのかな。最近良く見るな。
富士山上空を頻繁に飛行機が飛び交っているということだな。

 富士山検定
  模擬問題(歴史編)
   第10問 宝永の大噴火は、どの方角に広がったか?
 
         ①東 ②西 ③南 ④北





   ……………………………………………………………………………………


    正解 ①の東

    宝永の大噴火
    1707(宝永4)年に発生した大規模な噴火。
    噴出物総量は8億5000万立方メートル。
    この前兆であったかのような1703(元禄16)年の元禄大地震と
    1707(宝永4)年の宝永の大地震の2度にわたる大地震が、大爆発
    の引き金になったと考えられている。
    噴火は、富士山東南部の山腹で発生。その時に隆起した寄生火山が、
    「宝永山」である。
    同年11月23日に爆発し、噴火は26日夕方まで、火の勢いは12月
    8日夜半までつづいた。噴火の被害は破滅的なものだったと伝えられて
    いる。「溶岩流はなく、大量の火山弾や火山灰を降らせる」というのが
    この噴火の特徴であった。その勢いはすさまじく、新井白石(ハクセキ)の
    自伝「折りたく柴の記」には、火山灰が江戸にまで到着していたことを
    示す記述も残っている。
    もっとも被害がひどかった東麓の村のひとつ、須走村(スバシリムラ){現・
    静岡県駿東郡小山町}では、全75戸のうち38戸が全壊、37戸が全
    焼と全滅状態。この被害状況を受け、幕府は復旧資金を全国に募り、のち
    に北駿地域の復興の父とされた、関東郡代 伊奈半左衛門(イナハンザエモン)
    に復興事業を命じる。
    しかし、その対策は飢餓に苦しむ人に米銭を与えるなどという一時的な
    対応でしかなく、根本的な対策はとられなかった。
    火山灰が積もった土地の田畑は実らず、日が経つごとに被害は深刻さを
    増し、出稼ぎのため田畑を捨てて村を離れる人々が相次いだ。
    やがて村に残る者は老人と子どもだけとなり、その中には餓死する者も
    出たという。生活に苦しむ住民の姿を見た伊奈半左衛門は、正式な手続き
    を得ずに幕府の米を与えたため、罪を問われ責任を取って切腹した。
    のちに、「伊奈神社」が建てられ祀られている。
    また、新田次郎の小説「怒る富士」はこの復興の様子を、伊奈半左衛門を
    中心として描いた小説である。
    家も田畑も1~4メートルの焼け石で覆われていた噴火後からもとの状態
    にもどるまでには、およそ30年の長い歳月を要した。
    そして宝永山の大噴火を最後に、およそ300年間、富士山は噴火活動を
    休止している。


 〔富士山検定公式テキスト〕富士山検定協会著から


   ………………………………………………………………………………

   麻)日本が知りたい みちのく古都・米沢(’87年2月10)
     ひるのプレゼント
     ごぞんじですか?日本の楽器①太鼓(’87年2月23日)
     ごぞんじですか?日本の楽器②琴 (’87年2月24日)
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