異文化交流クイズ。サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第5回は、川田龍吉の晩年から出題です。
完全にドックの仕事から足を洗った龍吉は北海道の地に本格的な農場を確立すべく邁進します。彼は次男の吉雄をオックスフォードに留学させて欧米スタイルの機械化酪農を学ばせ、その帰国後は親子で力を合わせて働きますが、吉雄は僅か二十八歳で病死してしまいます。
この頃から龍吉は徐々に癇癪を起こすようになりますが以下のようなエピソードが残っているそうです。
農場で忙しく働く農民のために、龍吉自ら茶を沸かし振る舞おうとします。ですが、誰もそのお茶を受け取るものはいませんでした。彼らにとって龍吉は「殿様」であり(実際にそのように呼んでいた)、殿様の入れたお茶など畏れ多くて飲めない、と。
龍吉は暫く黙って立っていたものの、やがて「そうかい。誰も飲まんのかい」と呟くとも手に持っていた薬缶を放り投げ、無言で立ち去っていった、というエピソードが残っています。
年を経る毎に龍吉の感情は荒れていき、農夫達はただ殿様殿様と奉るだけで接触を避け、妻の春猪に当たり散らし、酪農の責任者とも衝突して辞められ、ついには酪農部門を全て売却してしまいます。
妻をはじめ息子や娘達にも不幸が続きますが、それでも龍吉は生き続けました。
太平洋戦争が勃発すると自室に籠もり、かつてグラスゴーで買い求めたディケンズやドイルを読み耽り、現実から逃避していきます。
太平洋戦争終結時に龍吉は89歳に達していましたが、それでも農業への情熱だけは持ち続け、杖に縋り、農夫に籠で自らを担がせてまで、畑へと出たそうです。
さて、ここで今回のクエスチョン。
昭和23年、龍吉92歳の夏。彼は突然「ある行動」に出て周囲を驚かせます。その理由を誰にも告げずに龍吉が突然とったこの「ある行動」とは一体なんだったのでしょうか?
ヒントとしては周囲の人々がその理由を悟ったのは、龍吉の死の26年後、彼の蔵書の中から出てきたジニーとの分厚い手紙の束だったでしょう。。。
完全にドックの仕事から足を洗った龍吉は北海道の地に本格的な農場を確立すべく邁進します。彼は次男の吉雄をオックスフォードに留学させて欧米スタイルの機械化酪農を学ばせ、その帰国後は親子で力を合わせて働きますが、吉雄は僅か二十八歳で病死してしまいます。
この頃から龍吉は徐々に癇癪を起こすようになりますが以下のようなエピソードが残っているそうです。
農場で忙しく働く農民のために、龍吉自ら茶を沸かし振る舞おうとします。ですが、誰もそのお茶を受け取るものはいませんでした。彼らにとって龍吉は「殿様」であり(実際にそのように呼んでいた)、殿様の入れたお茶など畏れ多くて飲めない、と。
龍吉は暫く黙って立っていたものの、やがて「そうかい。誰も飲まんのかい」と呟くとも手に持っていた薬缶を放り投げ、無言で立ち去っていった、というエピソードが残っています。
年を経る毎に龍吉の感情は荒れていき、農夫達はただ殿様殿様と奉るだけで接触を避け、妻の春猪に当たり散らし、酪農の責任者とも衝突して辞められ、ついには酪農部門を全て売却してしまいます。
妻をはじめ息子や娘達にも不幸が続きますが、それでも龍吉は生き続けました。
太平洋戦争が勃発すると自室に籠もり、かつてグラスゴーで買い求めたディケンズやドイルを読み耽り、現実から逃避していきます。
太平洋戦争終結時に龍吉は89歳に達していましたが、それでも農業への情熱だけは持ち続け、杖に縋り、農夫に籠で自らを担がせてまで、畑へと出たそうです。
さて、ここで今回のクエスチョン。
昭和23年、龍吉92歳の夏。彼は突然「ある行動」に出て周囲を驚かせます。その理由を誰にも告げずに龍吉が突然とったこの「ある行動」とは一体なんだったのでしょうか?
ヒントとしては周囲の人々がその理由を悟ったのは、龍吉の死の26年後、彼の蔵書の中から出てきたジニーとの分厚い手紙の束だったでしょう。。。