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「戦争は正当化できるか―オンライン討論から」(2024年5月7日)

2024-05-05 23:42:18 | 時事

  アメリカの反戦運動体World Beyond Warが5月5日に開いた「戦争は正当化できるか」(Can War Ever Be Justified?)というタイトルのオンライン討論会に参加した。討論者はWorld Beyond Warの創設者で反戦平和活動家のデイヴィッド・スワンソンとモーガン・ステート大学(ボルティモア、メリーランド)アフリカーナ・スタディーズ教授のジャレッド・ボールで、司会はベルギー在住の評論家ヨウリ・スモーターである。スワンソンが、「戦争は決して正当化されない」という絶対平和主義の立場で、ボールは「戦争は正当化される」という立場で議論を展開した。なお、スワンソンは白人で、ボールとスモーターはアフリカ系アメリカ人である。討論に先立ち、参加者全員に二択の質問が提示された。一つは、War is never a better choice than non-violent action.(戦争が非暴力行動より良い選択ということはありえない)で、もう一つは、War can be justified.(戦争は正当化されうる)であり、参加者はどちらかを選ぶように促された。私は前者を選択したが、それはともかく、質問の立て方自体が適当ではない。「戦争が非暴力行動より良い選択ということはありえない」はまことにその通りだが、それが「真」であるための条件があるはずであり、そのことを語らずに選択肢を提示するのは必ずしもフェアではない。しかしながら、「戦争は非暴力行動より良い選択ということはありえない」と問われれば、その通りと言うほかないので、ひとまず前者を選択した。このような討論会を非暴力・平和を掲げて活動する運動体が主催したのは、やはりウクライナ戦争を巡るドンバスやクリミアの問題と、イスラエルのガザ攻撃とパレスチナ人虐殺を批判するにあたり、2023年10月7日のハマスによる「奇襲攻撃」をどのように解釈するかが問題となっているためであろう。

  スワンソンは、いかなる理由であれ、武力の行使を肯定すると、帝国主義者の「聖戦論」に利用される恐れがあり、そのことは歴史が証明しており、また、国家間の戦争は、さらなる戦争を呼び、核戦争にエスカレートする危険を伴い、夥しい人命が失われ、貧困、分断や難民などの人道危機を招来し、環境に与える影響も甚大であるがゆえに、いかなる名分があっても許されるものではなく、非暴力的な組織化や活動などを通じた紛争の抑止や解決を目指すべきであると述べる。その上で、彼は、バルト三国がソ連からの独立を訴えた、いわゆる「バルトの道」を非暴力運動の代表的な例としてあげ、実際リトアニアでは、非暴力による市民行動を国家の基本政策とする方針さえ検討されたと言う。パレスチナにおいても、第一次インティファーダにおける、パレスチナ人による大規模な市民的不服従の実績があり、あらゆる抵抗がその潜在的な力に立脚すべきであり、その点について同意するパレスチナ人が少なくないにも関わらず、10月7日の「奇襲攻撃」を「成功」と呼ぶことは、その予期しえた結果が積み重なっている現実において、グロテスク以外の何ものでもなく、また、NATOを止めることを名目に始めたロシアのウクライナ侵攻が、予想されたごとくにNATO拡大論に力を与えており、二年前に武器が湯水のごとくにウクライナに注ぎ込まれる以前には、非暴力的手段で紛争を解決する試みはウクライナにもあったとスワンソンは論じる。武力は兵器産業や西側の政治エリートに力を与える一方、政治組織を腐敗させ、武器の蔓延による環境破壊も甚大となる。戦争は「法の支配」を破壊し、権威主義を呼び起こし、国家による監視を強化する。我々が考えるべきことは、エスカレーションを阻止し、侵略の名分を与えず、恒久的でより持続可能な紛争解決の手段を通じて、気候変動や環境破壊や貧困などのグローバルな問題に対処すべきであり、その成果は確実に上がっており、我々はそうした事例に学ぶべきである。よって、ニジェールが米軍を追い出すことは平和に寄与するが、もし、ロシア軍を招き入れるのであれば、正反対の結果となると論じる。

  以上が、概略スワンソンの議論で、反戦平和運動にコミットしている立場としては当然の議論である。

  それにたいして、ボールは、私同様、問いの立て方自体への違和感を表明した上で、「戦争は、暴力の独占の必須の前提として、帝国によって常に正当化されており、それは、『聖戦』(just war)の遅滞なき遂行を確実にする言論や教育に対する支配的統制及びそれにより生じる心理的暴力をともなう」と論じる。つまり、帝国の戦争プロパガンダを拡大し拡散する装置が埋め込まれている全体主義的統制下に、異議を申し立てることすら困難な状況であるならば、「同意」は「同意」ですらなく、「戦争の正当性」を云々する以前に、戦争や暴力は常に起きるとボールは論じる。ここで、最も高度且つ広範囲に組織化された技術的及び心理的治安維持装置が組み込まれた植民地支配の悪夢の中で、被支配者の側は、自らを解放するための「義」であると確信した場合に、隷属的支配や植民地支配に対する武力による抵抗や闘争を道徳的に正当性のあるものと認めて来た。よって、他者に対する暴力的な攻撃を永続的に廃止するために、自覚的且つ政治的に組織されたあらゆる手段が必要と考えるならば、そのような戦争は絶対的に正当なものである。したがって、それらの戦争の正当性を否定し、且つそれらを支持する声を拒絶することは、彼らの主張する原理が、「抵抗の抑圧」に比して、「正義から生み出される平和」を含むものであるならば、いずれも不道徳的なものと見なされなくてはならない。このような反植民地戦争は、奴隷制の暴力、植民地支配の暴力、文化収奪の暴力、労働搾取の暴力、そして何より資本の暴力にたいする「自衛の権利」から導き出されるところの自然権によって道徳的にも正当化される。大規模な暴力も科学的に客観的な根拠にもとづき正当化されうる。即ち、ダルバ・ビン・ワハド(Daruba bin Wahad)やラッセル・マルーン・ショアツ(Russell Maroon Shoatz)が言うように、「先行する暴力にたいする真の抵抗は、同等の反発する力によってなされる」である。この討論のサブタイトルが言及する「非暴力」(non-violence)とは、「暴力の反対」ではなく、単に「暴力の不在」を意味するものに過ぎず、現実的に「暴力の反対」を成すものは、「対抗暴力」である。

  このように論じた上で、ボールは、10月7日の「奇襲攻撃」が現在の状態を招いたであるとか、ロシアの「侵攻」がNATO拡大論に力を与えたというような議論は、先行する不正義を無視して、問題を被抑圧者に転化するものであると論じる。つまり、イスラエルのガザ攻撃やNATOの問題は、これらの問題を支える帝国の論理や物質的条件(material conditons)が変化しない限り解消されることはない。したがって、帝国主義の戦争と被抑圧者による抵抗戦争を同一の次元で語るのは「誤った等価関係」(false equivalence)であり、また、環境問題の根本は、資本主義的生産様式とそれを維持するための帝国主義戦争にあるのであって、この問題を「全ての戦争」に結び付けて語るのも、「誤った等価関係」であると論じる。

  10年前であれば、私もスワンソンの考えに同意したかもしれないが、さすがに今となっては、ボールの議論により説得力を感じる。ボールが、わりと躊躇なく「暴力」という言葉を使うのは、近代市民社会の成員にとっては反直感的(counterintuitive)なのだが、被抑圧民族にはこのように考える人が存在するし、確かに歴史的に見ても、武力を用いた抵抗戦争や解放戦争は幾度となく戦われて来た。もちろん、このことは暴力を奨励するものではないし、非暴力行動に意味がないというわけでは決してなく、ボールもそのことは認めている。だが、パレスチナから遠く離れた安全地帯で、それも西アジアの政治的現実を規定する物質的状況を変更する努力なしに、「ハマスの『奇襲攻撃』が現在の状態を招いた」などと言ってみても、当事者性を欠いたきれいごとでしかないだろう。バイデンやブリンケンをはじめとしたアメリカの政治支配層も同様の論理で、イスラエルへの継続的支援を正当化している。また、スワンソンは、ロシアの行動がNATOを正当化する口実をバルト三国の政治勢力に与えたために、バルト三国において反NATOの活動はやりにくくなったと主張しているが、台湾を巡るリトアニアと中国の確執にも現れているように、バルト三国はアメリカの影響下にあり、アメリカによるプーチンやロシアの「悪魔化」の影響の浸透を伺わせる部分もある。加えて、NATO(アメリカ)が、2022年以前から、ウクライナに武器を流し込んでいたのは確かであり、ドンバスは8年間攻撃にさらされ、ドネツクやルガンスクはロシアへの編入を望んでさえいた。そのような先行条件を語らずに、ロシアの行動だけを批判しても大した意味はないだろう。同様のことは、日本のリベラル反戦勢力にも言える。東京新聞などのリベラルメディアは、フィンランドのNATO加盟などを取り上げて、「ざまあみろ」と言わんばかりの論調を繰り広げている。総じて、日本のリベラル勢力はNATOを「防御装置」として肯定しているのである。NATOを肯定することは、帝国主義の論理に与するも同然である。そのような状況で「非暴力」を説かれても、説得力はゼロに等しい。

  非暴力行動は、それ自体は尊いものである場合が多い。例えば、中村哲氏のペジャワール会によるアフガニスタンでの活動は賞賛に値する非暴力行動だが、それ自体では、米軍の影響下にあるアフガニスタンの物質的状況を変えることは出来ない。先日、ガザで難民の食糧支援にあたっていた、ワールド・セントラル・キッチンというNGOの職員7名がイスラエルの攻撃を受けて死亡するという出来事があった。食糧支援という行動だけをとってみれば、「尊い非暴力行動」ということになるのだろうが、ワールド・セントラル・キッチンは、アメリカの政治支配層に近い組織である。彼らは、アメリカが引き起こす紛争の現場に現れては、「食糧支援」などを行うのだが、彼らの存在や行動が、紛争地域を規定する物質的条件を変えることは決してなく、むしろ、西側帝国主義の随伴者とさえ言えるであろう。このことを、日本が存する東アジア地域に当てはめてみれば、東アジアにおいて対立と紛争の構造を規定する根本的な物質的条件は、やはり米軍の存在と「日米同盟」である。よって、この物質的条件を変更することなく、日本がアジアの国々ーそのほとんど全てがかつての被支配国家ーと平和的に共存するのは極めて困難である。しかるに、日本の領空内を、朝鮮や中国の爆撃を想定したアメリカの戦闘機が自由に飛行する状態を許容したままで、「唯一の被爆国」であることを理由に、朝鮮に核の放棄を迫るなどと言うことは、帝国主義の論理に取り込まれていると言われても仕方がないであろう。

  また、スワンソンは戦争は環境を破壊すると論じているが、大学の英語の授業で使用するEFL(English as a foreign language)教材などでは、ガザの問題が、水や資源へのアクセスが制限されていると言う意味で、「インフラ問題」や「環境問題」として語られることがある。英語の教材は、持続的開発目標(SDGs)に沿って編集されている場合が多いのである。しかし、そこには、パレスチナの問題の根底にある物質的条件を規定する西側帝国主義の問題は語られることがない。ちなみに、中村哲氏も、英語の教材にはよく登場する。

  討論の最後に、冒頭に提示された二択の質問の再提示が行われたが、討論開始前は、参加者の73%がスワンソンの立場に同意していたのが、討論後の再投票では、それがほぼ逆転する結果となった。ウクライナ戦争についても、西側が語る「いわれなき侵攻」論の問題点を指摘する声は予想以上に多かった。問いの立て方自体に問題があったのは冒頭述べたとおりである。また、「全ての戦争に反対する」が真に有効となるためには、「あらゆる条件が同等」(centeris paribus)という前提が必要だが、そのような前提自体が存在していないのだ。とはいえ、World Beyond Warのような、典型的な西側の反戦運動体が、このテーマを取り上げて議論をしたこと自体は評価に値する。我々は、非暴力行動の歴史や実績を学ぶのと同時に、被支配者側による反植民地主義・反帝国主義の抵抗戦争の歴史も学ばなくてはならない。暴力を肯定するためではなく、現在の国際社会を規定する、西側帝国主義勢力によって敷かれた物質的条件を変えるためにもそれは必要であり、時代はそれを我々に要求している。