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「被抑圧者の抵抗」と「植民者の意識」ーイスラエルのパレスチナ攻撃とアメリカにおける抗議運動を巡って(2024年5月18日)

2024-05-17 15:49:33 | 時事

 前回は「イスラエルのパレスチナ攻撃とアメリカにおける抗議運動」と題して、アメリカの大学を中心に展開されている「資本引き上げ」(divestment)運動の概略を、アメリカにおける帝国主義批判と植民地主義批判を踏まえて論じた。今回は彼らが、主流マスコミや既存のリベラル勢力が主張する「ハマスの『奇襲攻撃』も悪い」とする議論に抵抗していることについて、彼らの立ち位置と論拠を「被抑圧者の抵抗」と「植民者の意識」という観点から論じると同時に、彼らの運動が抱えている潜在的な問題点についても触れたい。

 2023年10月7日の「ハマスの奇襲攻撃」を巡る議論につていは、2023年11月2日にロンドン・レビュー・オブ・ブックス(London Review of Books)に掲載された、同誌編集長のアダム・シャツ(Adam Shatz)の「報復の病理」(Vengeful Pathologies)と題する論考と、それに対する反論として提出されたアブダルジャワド・オマー(Abdaljawad Omar)による「パレスチナの戦争における希望の心理ーアダム・シャツへの返答」(Hopeful Pathologies in the War for Palestine: a reply to Adam Shats)と題する論考が大変興味深い。オマーは、パレスチナのラマッラーを拠点に活動するライター及び研究者である。

 シャツは、「人種主義、嫌悪、怒り、そして“正当な復讐の欲求”のみでは、解放闘争を生み出すことは出来ない。身体を不穏の領域に投げ込むこれらの意識の閃光は、他者の目撃が眩暈を引き起こし、我が血が他者の血を渇望する、ほとんど夢想状態の心理を呼び起こし、初期段階におけるこの情熱の爆発は、制御されなければ、頽廃するのみである」と言うフランツ・ファノンの言葉を引用しつつ、アルジェリア独立戦争に関するファノンの発言を参照して、「彼(ファノン)はムスリムの同胞と共に、アルジェリアのアイデンティティと市民社会が、民族性や信仰ではなく、共通の理想によって形作られる将来を模索したアルジェリアの非ムスリムにも大いなる敬意を払った。しかし、それが、フランスの暴力とアルジェリア民族解放戦線(FLN)の権威主義的なイスラム・ナショナリズムによって霧散して、アルジェリアがその影響から今日も回復していないのは悲劇である」と語り、ハマスの「奇襲攻撃」を「抵抗」として語るのは、被抑圧者による「報復の病理」であると一蹴する。さらに、ハマスの行為を肯定的に語ることは、民族的部族主義(ethno-tribalism)であるという、パレスチナの歴史家Yezid Sayighの言葉を引いて、脱植民地主義(decolonial)左派の民族的部族幻想は「全く常軌を逸している」と語り、「カルト的な力に乗っ取られた左派の一群は、一般のイスラエル人への共感を欠いている」と結論する。

 これに対して、オマーは、アダムの議論を「西洋知識人がとらわれる大きな知的蒙昧の体現」と呼び、「我々は、あなた方が、奈落の底で、自ら慎み深く悲劇的な被害者であり続ける限りは連帯する」とパレスチナ人に囁きかける、「一種の疑似連帯」だと批判する。さらに、オマーは、「かつて共感に満たされていた集団的な声は、虐げられたものの怒りに接するや、野蛮で、根源的で、右派のファシズムを呼び起こすものに対する警戒の声となって響きわたる」と論じ、「イスラエルの歴史的な語りの迷宮に深く足を入れて見れば、報復は、抽象的で、刹那的な感情などではなく、イスラエルの軍事主義の中枢神経にほとんど深く刻み込まれたものであることが明らかとなる」と続ける。即ち、世界で最も人口密度の高い地域のひとつに一万八千トンもの爆弾を投下するのは、「10月7日」の出来事に対する単なる反応などではなく、「通常の因果の領域を超えて、単に存在しているという理由によって、パレスチナ人の処罰を求める」シオニストの心理そのものに求められるものである。そして、「シオニズムは、パレスチナ人に、『我々か奴らか』というゼロサムゲームを適用しているために、このサイクルを突破するためには、この壁を破壊することが必須となる。それは、構造的で政治的な難局に永遠に軍事的解決を適用しようとするイスラエルの信念に抵抗する」ことに他ならず、「『10月7日』を許容しようが非難しようが、『10月7日』にパレスチナ人は、まさにそれを始めたのだ」とオマーは語る。そして、「10月7日」を評価するにあたっては、イスラエルが過去16年間にわたって行ってきたガザ封鎖と対ゲリラ戦争を考慮にいれなくてはならないとして、2006年にイスラエルがレバノンに侵攻して、1200人の死傷者を出し、膨大な数の民間人の命が失われたことをあげる。イスラエルの部隊が攻撃されたことに対する返礼が、それだったのだ。それこそ、シャツの議論に従えば、正当な軍事的目標だったにも関わらず。さらに、イスラエル軍の兵員ギラド・シャリトの拘束に対して、イスラエル軍は、1200人近くの民間人の死者を出す報復攻撃を行っている。つまり、イスラエル軍に関して言えば、軍事目標と民間人の区別は直ちに消え失せる。シャツは、そのことに部分的に言及しながらも、「行動を動機づける根源的な復讐の病理のようなものを、パレスチナ人のみに適用しているように見える」とオマーは論じる。結局のところ、ヒズボラやハマスが兵士を標的にしようが、民間人を標的にしようが、彼らは「テロ組織」のままであり、「学校、宗教施設、政府インフラを標的にした、民間人に対する不均衡で無差別な武力行使」を意味するダヒヤ・ドクトリンは、ヒズボラによるイスラエル兵士の拘束と殺害への対応として形成されたものであって、今我々が目撃しているのが、まさにダヒヤ・ドクトリンなのだとオマーは言う。換言すれば、「標的の対象が何であれ、あらゆる形式の抵抗が、他でもない空からの焦土作戦という返礼を受ける」ことになる。イスラエルは、パレスチナ攻撃の際に、自国兵士の損失を最小限にして、軍事目標と民間人の区別などなく、相手に最大限のダメージを与える方法をとってきた。

 パレスチナの抵抗勢力は、軍事作戦を練るにあたって以上のような条件を考慮せざるを得ず、また、「10月7日」の方向に事態を押し進めた社会的且つ政治的な諸力についてオマーは語る。その最もたるものが、ガザ地区の生活状態の改善が遅々として進まなかったことと、事態打開のための明確な政治的筋道が描かれなかったことである。2018年と2019年に行われた、「帰還大行進」(the Great March of Return)に対するイスラエルの報復も圧倒的に非対称的で破壊的なものであり、数百人のデモ参加者がスナイパー狙撃の標的となった。これらのことは、イスラエルが、誰からの処罰も受けることなく、これらの行為を行える「国際的地位」を有していることを示している。アメリカは、イスラエルの指導者が国際刑事裁判所(ICC)で有罪判決にならないようにICCに圧力をかけてさえいる。ヨーロッパも、パレスチナの地位を認めず、イスラエルに制裁をかけることすらしない。これらの事実の示すところは、「国際社会」は、パレスチナ人に次のようなメッセージを送っているも同然だということになる。即ち、「いかなる法的考慮も、政治的救済もなく、あるのは、非暴力にたいする限定的な支持と、イスラエルが犯罪行為を犯していると認識された場合に沸き起こる定期的な非難のみである」

 オマーは、「10月7日」の出来事について、シャツが主流マスコミが流す情報に迎合していることも指摘する。この点については、既に多くの報告があるので、詳細はオマーの原文にあたっていただきたいが、要点のみ述べれば、西側メディアが喧伝したような、「ハマスの無差別殺戮」のごときものは起きておらず、あまつさえ、「赤子の首を切って並べた」などと言う事実は全くないということである。イスラエル居住区での民間人の死者も、むしろイスラエル軍が、人質の交換交渉よりも、南部地区のGaza Envelopeを奪い返すことを優先して居住区を銃撃したことにより、民間人を巻き込んだことが、難を逃れたイスラエル人の証言によっても示されている。もちろん、このことは、ハマスの戦士が、命令通りに規律を持って動いたことや、ハマスの攻撃による民間人の死者が出なかったことを意味しないが、こういう場合、常に詳細の把握は重要(Details matter)なのである。にもかかわらず、西側の政治家やメディアは、ハマスの「残虐性」と「野蛮性」をことさら強調して、これをイスラエルの焦土作戦を正当化する根拠として戦略的に使っており、ウィキペディアにおいても、「(ハマスが)数百人を殺害し、老人、子供、赤ん坊、妊婦を含む数百人を誘拐し、甚大な被害をもたらした」ことが既成事実として記載されているのである。

 さらに、オマーは、シャツのフランツ・ファノンの援用も批判する。オマーは、「(ファノンが)暴力の心理的有用性の虚無的な称揚に注意を促し、それが暴力を行使する者に有害な影響を与える危険性に警告を発していた」のは事実であるとしながら、同時に、ファノンが「民族意識の幻想に警告を発するだけでなく、より人間的で社会主義的な地平への弁証法的転換を支持していた」ことを指摘する。そして、ファノンが、暴力を「植民地支配の構造を解体するために必要な政治的且つ戦略的な手段であり、植民地支配の枠内において必要不可欠なものであると見なしていた」と論ずる。ファノンの暴力批判は、「反植民地闘争が持つ陥穽や潜在的力を照射した内在的なもの」であり、「入植者植民地主義から自らを解放するのみならず、植民地帝国中枢の自己解放さえ射程に入れていた」と論ずる。その上で、オマーは、「パレスチナ人は、西洋の知識人が敷いたあらかじめ決められた運命を受け入れよと言うのか。もしそうであるならば、西洋の知識人は、そうはっきり言う勇気を持つべきだ」と問いかける。

 さて、以上のような議論を踏まえて、現在大学のキャンパスを中心に展開しているアメリカ合衆国での抗議運動を考えた場合、その潜在的可能性に期待を寄せると同時に、結局のところ、権力機構の一部であるアカデミアを越えて、労働者階級との接点を見つけて行けるかどうかに、その成否がかかっていると思う。ファノンの言葉を借りれば、パレスチナの解放はアメリカ合衆国の解放であり、後者を目指すことなく、前者が達成されることもまたないということである。両者は相互排他的ではなく、不可分なのだ。被抑圧者の側は、支配者が善意や慈悲心から彼らを解放してくれるなどという幻想は持っていないであろうし、そのようなことが歴史上起きたためしもない。学生の運動がパレスチナ解放を達成したり、それによってのみアメリカが変わるなどということもまたない。ベトナム戦争時にも、大学のキャンパスを中心に反戦運動が起きたが、それ自体がアメリカを変えるなどということはなかったし、ベトナムからフランスやアメリカを追い出したのは結局のところベトナム人自身であった。

 また、アメリカの学生は、大学にイスラエルと関係を持つ企業からの「資本の引き上げ」(divestment)を要求している。イスラエルとアメリカの軍産複合体が結託して、それによって生み出される武器がパレスチナ人を殺しているというのが彼らの理由である。そうであるならば、自国がウクライナに武器を投入し続ける行為も批判しなくてはならない。もし、前者を批判して、後者を批判しないのならば、それは「パレスチナ人の命は大事だが、ウクライナ人やロシア人の命は大事ではない」という二重基準となるからだ。ウクライナ戦争とパレスチナの問題は、とどのつまり、アメリカの帝国主義的世界戦略の問題であり、問題の本質を捉えているかどうかが重要である。さもなければ、結局、帝国の論理に回収されて終わりとなろう。一瞥した限りでは、彼らは、少なくとも、ウクライナやイスラエルを巡る自国政府やメディアの「二重基準」は見抜いており、権力が自らに加える弾圧が、そのことに関する彼らの確信をさらに強くしているように思える。また、コロンビア大学の「アパルトヘイトからの資本引き上げを要求する連帯行動」(Columbia University Apartheid Divest [CUAD])の声明の中に、パレスチナ解放には直接関係のない「トランスナショナル・フェミニズム」や「反クイアフォビア」のようなテーマも入っているのは、それらのテーマ自体は肯定できるものであったとしても、注意すべき点である。トランスナショナリズムは、アメリカを中心とした西洋の学問トレンドであり、これを水平的に適用した場合、西洋人の視点で物事を判断することとなり、イランやアフガニスタンのような国を、「女性を差別するアパルトヘイト国家」扱いして自家撞着に陥り、帝国主義支配層に足元をすくわれることにもなりかねない。とはいえ、この度の学生の行動が、アメリカの語る「民主主義」の欺瞞性と暴力性を暴くことに貢献しているのは確かである。

 アダム・シャツが、「民族的部族主義」や「民族主義幻想」、さらには「権威主義」などと言う言葉を弄して、「10月7日」に何らかの意味を見出そうとする議論を封じ込めようとすることがひときわ注意を引く。この事実は、近代主義的植民者が最も忌避するもののひとつに、「部族性」(tribalism)があることを想起せずにはいられない。入植者植民地主義は、アメリカ合衆国の所謂「西部開拓」にそのプロトタイプを見出すことが出来るが、これに関して、先住アメリカ人について語る、アメリカ合衆国第三代大統領トーマス・ジェファーソンの言葉を以下に引用する。

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 私はこれらの国の原住民を、彼らの歴史に鑑み、憐憫の情をもって見てきた。人間の能力と権利を与えられ、自由と独立を熱烈に愛し、彼ら自身の国で、干渉を受けないことだけが彼らの望みである。しかし、他の地域から溢れ出る人口の流れがこの地域に向かい、彼らは、迂回する力も、対抗する習慣もなく流れに圧倒され、あるいは押し流がされてきた。狩猟民族にとっては、あまりにも狭い土地に押し込まれた今、人類は彼らに農業と家事労働を教えるよう我々に命じている。そのため、われわれは彼らに家事や家庭道具を惜しみなく与え、生活の術を教える指導者を彼らの中に配置し、われわれ自身の中からの侵略者に対しては法の庇護を与えている。

 しかし、彼らに、現在の人生の歩みに待ち受ける運命を啓蒙し、理性を働かせ、その命令に従わせ、状況の変化に応じて追求するものを変えるように仕向けようとする努力には、強力な障害が立ちはだかる。彼らの身体の習慣、心の偏見、無知、高慢、そして彼らの中に存在する利害関係を持つ狡猾な人々の影響力によって、彼らは闘わされているのだ。彼らは、現在の物事の秩序の中において、自分自身を何ものかであると感じ、それ以外のものになることを恐れている。このような人々が、先祖の慣習に対する尊大な敬意を教え込む。先祖が行ったことは、いつの時代もそうでなければならない。理性は偽りの道しるべであり、肉体的、道徳的、政治的な状態において、その助言のもとに前進することは危険な革新である。彼らの義務は、創造主が彼らを創ったたままにとどまることであり、無知は安全であり、知識は危険に満ちている; 要するに、友よ、彼らの間には、良識と偏見の作用と反作用が見られる。彼らにも反哲学者がいて、物事を現状のままに維持することに関心を見出し、改革を恐れ、理性を向上させ、その命令に従う義務よりも習慣の優位を維持するためにあらゆる能力を発揮するのだ。(1805年3月4日)

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 ジェファーソンとアダム・シャツの議論に、200年の時を隔てているにも関わらず、共通する植民者の意識を見出すのは難しいことではない。近代主義者にとって、民族なるものは、彼らの中に「根源的な恐怖」を呼び起こすものとして、常に制御されなくてはならないものなのであり、この制御と馴致のプロセスを、我々は「文明化」と呼んでいる。

 以上述べたことの全てが、日本とアジアの隣国の関係に当てはまる。パレスチナ人は、彼らを解放することを我々に要求しているのではない。彼らは、パレスチナの現状を規定する帝国の物質的条件を変更せよと我々に迫っているのだ。それは、とどのつまり、我々自身を規定する物質的条件を変更せよということである。そのことを見据えない、いかなる「パレスチナ連帯」の言葉も虚しいだけである。帝国主義を押し返す抵抗の力が、西アジアにおけるアメリカとイスラエルの立ち位置を困難なものにする中、イスラエルはNATOの戦略資産に益々依存するようになっている。そうであるのに、日本のリベラル言論を代表する新聞が、このような議論をしているのである。「ああ、『戦後民主主義』とはこのようなものであったのか」と慨嘆する以外に何が出来ようか。