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( …今までの辛い過酷な環境に順応しながらも、歪んだ価値観を持っていない人である。)
自らは したくないことを 鞭うたれて やらされてきたけれども、それでも、安易さに流されている人に やさしい気持ちを持てる人である。
自らは いじめや虐待に耐えて生きてきたけれども、恵まれて生きてきた人にも やさしい気持ちを持てる人なのである。
嫁いびりを 徹底的にされた女性が、自分が 姑になった時に、どうなるかを 考えてみよう。
その女性が どういう幼児期を 過ごしたかにもよるが、今、それを無視して考えると、良い姑には なれない、それが自然であろう。
姑に対して 憎しみを持ち、今度は 自分が嫁をいじめる。
人間は 神様ではないのだから。
自分が 嫁いびりを しないまでも、今度は 嫁のわがままを 快くは思わない。
しかし、
中には 自分をいじめる姑を 許す人もいるだろう。
姑も そのように酷い人間になるだけの 理由があったのだから 許そう、と思う嫁も いるだろう。
嫁いびりをしている姑も 決して幸福ではなかったのだと、自分をいじめる姑を 許す嫁もいる。
しかし、だからといって 心の傷は残っている。
心の傷が 残っている以上、自分が 心やさしい姑にはなれない。
【真に偉大な人】( P.41~)
人間が 偉大だというのは、次の段階である。
そこまで徹底的に 嫁いびりをされても、それでも、やさしい姑になる時である。
これでもか、これでもかと、いじめにいじめ抜かれて、それでも やさしい姑になれるときに、その人を 偉大な人 と言うのである。
とことん いじめられ、自殺しないのが奇跡のようなところまで いじめ抜かれて、それでも やさしい姑になれるときに、その人を 偉大だと言うのである。
世の中を 見ると、なにも我慢はしないで、わがままで 怠け者で、安易さに流されて、大人になってしまう人が 多い。
自分を向上させる 努力を怠って、あまり働かないので給料が少ない人がいる。
その時に、
自分は 血の滲むような 辛い努力だけの人生を送り、その結果、高い給料をもらって たくさんの税金をとられてても、そうであっても、安い給料の人からは 税金をとらなくてもいい という気持ちになれる人が、将たる器 なのである。
もともと、経済的に恵まれた人たち、親の 財産があるとかいう人たちが、経済的に恵まれない人に やさしい気持ちを持つのは当たり前である。
それは 難しいことではない。
問題は、赤貧から 努力だけで 身を起こした人である。
一切の甘えを許されない 苛酷な世界を 身一つで生き抜いて、にもかかわらず だらだらと生きている人に やさしい気持ちを 持てる人が、偉大な人なのである。
自分の 裸一貫からの努力を社会は考慮しない、それでも 貧しい人に やさしい気持ちになれる人が、人の上に立つ 器なのである。
人は 理屈で、人の上に 立つのではない。
心で 人の上に立つのである。
自分自身に対する不公平を 許せることが、人の上に立つ器量だ と私は思っている。
「 心の ゆとり 」が、人の上に立つ立てる器量である。
そういう人に、人は 安心感と 信頼感を持つのである。
どんなに 正しい理屈を言っても、それだけで 人は、その人に 安心感を持つわけではない。
その人を 信頼できるわけではない。
( つづく )