「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

…なぜ? 私が この心理学者を支持するのか?の…心理 13

2013-04-28 08:22:33 | 気づき



(…家族を愛する能力がない者は、家族に囲まれていても幸せではない。)

家族を愛する能力がない おばあちゃんがいたとする。
実際、こうした おじいちゃん、おばあちゃんは たくさんいるのだが。

その おばあちゃんが、子どもや 孫に囲まれて八十歳の 誕生日を祝ってもらった とする。

外から見ると、その おばあちゃんは幸せに見える。
しかし、そのおばあちゃんには 家族を愛する能力がないなら、そのおばあちゃんは 幸せではない。

事実、私は そのような立場にいながら 家族を恨んでいた おじいちゃん、おばあちゃんを 知っている。


そして、人は 八十歳、九十歳に なったからといって、自然と 母親固着から 解放されるものではない。

八十歳、九十歳に なっても、母親固着の人は 母親固着なのである。

そして 憂鬱で、不安で 不幸なのである。


現実に 母親が ネクロフィラスな人間である場合には、この母親との関係を 切らなければならない。

母親を切ることも 悲劇だが、母親を 切らないことは、もっと大きな 悲劇となるのである。

ネクロフィラスな人間とは、 死を 愛する人間のことである。


(つづく)

…なぜ? 私が この心理学者を支持するのか?の…心理 12

2013-04-28 07:47:14 | 気づき



(…彼らは、自分の「幼児期の母親に対する愛着」を 満たしてくれない周囲の人が嫌いなのである。)

肉体的なハンディキャップの場合には、人は そのことを考慮に入れてくれる。
しかし 心理的ハンディキャップの場合には、それを 考慮に入れてはくれない。

産み落とされてから 狼に育てられた子も、森の中で 一人で生きてきた子も、「母なるものへの願望」を 満たされて育った子も、人は 同じ子どもとして扱う。

世の中の人は、愛されて育った子どもと 愛されないで育った子どもに、同じことを要求する。

愛されて育ったか、愛されてないで 育ったかは、眼に見えないからである。


その結果、
五歳児の大人は、何をするのも辛い。

だから、
生きることは 辛いことばかりになる。

そんな きついことばかりを 周囲の人は 当たり前のように要求してくる。
こうして、
周囲の人 すべてが嫌いになるのである。

誰も、自分の ハンディキャップのことを わかってくれないからである。


フロムの言うように、母親固着も 母への恐れも、フロイトの考えた 性的欲求よりも はるかに強度で、かつ根源的なものである。
そして、
母親固着は 愛する能力を破壊する。

人を 愛することができなくなる。

つまり 母親固着の強い場合には、人は 幸せにはなれない。
人が 幸せになるのは、愛する能力が あるからである。

家族を 愛する能力がない者は、家族に 囲まれていても 幸せではない。


(つづく)

…なぜ? 私が この心理学者を支持するのか?の…心理 11

2013-04-27 23:38:30 | 気づき



愛に 飢えている子どもは、自分の世界を 楽しむことができない。

絵を描かせると、心の満足している子どもは、絵を 描くことに没頭する。

心の満足していない子どもは、
「ねー、私、ここに車で来たの」と、自慢話を始める。
そして
車の 絵を描く。
さらに「この車、知ってる?」と 先生に聞いたりする。


絵を 描くことよりも、先生が 自分をどう思うかに関心がある。
心の 満足していない子どもは、絵を描くことに 没頭できない。
常に 人が気になる。
この子に
「なんで絵を描くことに 没頭できないの?」と 叱ったらかわいそうある。


「美味しい」が 満たされて、美味しい料理を「作ってみたい」になり、「食べたい」になる。
それが 自己実現であり、欲求段階を のぼっていくことである。

愛を 身体で知っていないと 成長は難しい。

人は 愛を 頭で知っていてもダメなのだ。


【恵まれているのに 辛いのは、心が 満足していないから】

簡単に 言えば、深刻に悩んでいる人は 周囲の人がみな嫌いなのである。

なぜ 嫌いかと言えば、誰も自分の「幼児期の母親に対する愛着」を 満たしてくれないからである。
それを 満たそうとしても、満たしてくれる人がいない。

彼らは、自分の「幼児期の 母親に対する愛着」を 満たしてくれない周囲の人が 嫌いなのである。


(つづく)

…なぜ? 私が この心理学者を支持するのか?の…心理 10

2013-04-27 22:59:14 | 気づき



【社会的年齢は同じでも、心理的年齢は まちまち】(P.129~)

「近親相姦的きずなは、母親の愛と保護を 希求するばかりでなく、母に対する おそれを包含していることが多い。
この 恐れは何よりもまず、力と独立性についての その人独自の意味を弱化する 依存性そのものの結果である」


近親相姦的願望を 満たされないままに大人になる ということは、どういうことであろうか。

それは、子どもが まだ母親だけと遊んでいることが楽しい幼児期に、集団で遊ぶようにと 外の世界へ ほうり出されるようなものである。

母親と 二人で遊びたい時に、
「男の子は 仲間と遊ばなければいけません」と 外の集団に出ていかされるようなものである。
あるいは、
一人で遊んでいるところを 母親に見ていてもらいたい時に、母親の見ていない仲間の中に 入っていくようなものである。


それは、子どもにとって たまらなく淋しい体験であろう。

それは、子どもにとって やる気を失わせる体験になるであろう。

こうした体験の積み重ねで、子どもは 生きる意欲を 失うに違いない。
子どもは 外の仲間集団の中で 前向きに遊ぶことはできないだろう。
いつも
「母なるものへの願望」を待ちながら、後ろ向きに 仲間といることになろう。


大人の場合も同じである。
愛着人物の不在が 幼児に抑鬱気分をもたらすように、大人も 憂鬱になることがある。

それは 生きるために基本的な「母なるものへの願望」が 満たされていない時である。

子どもが、自分のことだけをしているのが自然な エゴイストの時期に、人のために 働かされたら辛いであろう。

成熟して、与えることが喜びになる時期に 人に与えることと、自己中心的で エゴイストであることが自然な時期に人に与えることは、辛いことである。

人は 社会的な年齢が同じでも、心理的な年齢が違うから、同じことをしていても、ある人には喜びで、ある人には 苦しみであるのである。

幼児に 重い石を運ばせる仕事をさせれば、人々は 幼児虐待と言う。
肉体的なことについては、人々は人権を言う。
しかし この肉体的虐待と同じことを、心理的なことについては、平気で してしまうのである。

「人のために 働きなさい」と言われ、それを 強制されたら、ある人々には地獄だけれども、別の人には自然なことである、ということもある。

大人にならなくても、子どもの段階でも同じである。


(つづく)

…農薬散布した花(野菜)から 死に至る ダメージを受けたミツバチを……。

2013-04-27 14:46:47 | 日記



… 三日ほど前、我輩が住むアパートへ、行き来する階段に、 蜜蜂が たくさん死んでいた。

…風に飛ばされずに、今日まで 階段の角に 吹き寄せられた 蜜蜂の亡き骸を、小さな (少し見づらいが) 蟻たちが、たかっているーーー蟻葬だね。

ーーーこの 蟻たちには、農薬の害が 及ばないのか…なぁ…???


…かなり前から、蜜蜂が 激減していると聞いているし、みんなも知ってることだが 蜜蜂や蝶は「花粉媒介」を担うから、いわゆる花全体に 影響する…いや、もうすでに、影響していると判断した方がいいね…。