【社会的年齢は同じでも、心理的年齢は まちまち】(P.129~)
「近親相姦的きずなは、母親の愛と保護を 希求するばかりでなく、母に対する おそれを包含していることが多い。
この 恐れは何よりもまず、力と独立性についての その人独自の意味を弱化する 依存性そのものの結果である」
近親相姦的願望を 満たされないままに大人になる ということは、どういうことであろうか。
それは、子どもが まだ母親だけと遊んでいることが楽しい幼児期に、集団で遊ぶようにと 外の世界へ ほうり出されるようなものである。
母親と 二人で遊びたい時に、
「男の子は 仲間と遊ばなければいけません」と 外の集団に出ていかされるようなものである。
あるいは、
一人で遊んでいるところを 母親に見ていてもらいたい時に、母親の見ていない仲間の中に 入っていくようなものである。
それは、子どもにとって たまらなく淋しい体験であろう。
それは、子どもにとって やる気を失わせる体験になるであろう。
こうした体験の積み重ねで、子どもは 生きる意欲を 失うに違いない。
子どもは 外の仲間集団の中で 前向きに遊ぶことはできないだろう。
いつも
「母なるものへの願望」を待ちながら、後ろ向きに 仲間といることになろう。
大人の場合も同じである。
愛着人物の不在が 幼児に抑鬱気分をもたらすように、大人も 憂鬱になることがある。
それは 生きるために基本的な「母なるものへの願望」が 満たされていない時である。
子どもが、自分のことだけをしているのが自然な エゴイストの時期に、人のために 働かされたら辛いであろう。
成熟して、与えることが喜びになる時期に 人に与えることと、自己中心的で エゴイストであることが自然な時期に人に与えることは、辛いことである。
人は 社会的な年齢が同じでも、心理的な年齢が違うから、同じことをしていても、ある人には喜びで、ある人には 苦しみであるのである。
幼児に 重い石を運ばせる仕事をさせれば、人々は 幼児虐待と言う。
肉体的なことについては、人々は人権を言う。
しかし この肉体的虐待と同じことを、心理的なことについては、平気で してしまうのである。
「人のために 働きなさい」と言われ、それを 強制されたら、ある人々には地獄だけれども、別の人には自然なことである、ということもある。
大人にならなくても、子どもの段階でも同じである。
(つづく)