囲碁とロック

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「囲碁入門」には二種類ある。~囲碁の入門書研究の序文~

2022-01-11 18:43:36 | 囲碁の入門書
こんにちは、囲碁の関です。
 
今月末・来月末のイベント
平井の本棚さまにて、1月30日(日)2月27日(日)
13:30~ からの開催です。
 
 
定員制となっております。
まだまだ空席ありますので、メールかDMか店頭で、ぜひご予約ください!
ご希望のかたがいらっしゃれば、テーマにちなんで、囲碁の体験教室もあります!
 
 
今回から、その核心により近づくための記事をアップしていこうと思います。
というのも、いろいろ言わねばならないことが多すぎて、伝えきれるかどうか不安なのです。
やっているとすぐ時間なくなってしまうし。
聞いた時にスッと受け入れて頂けるように、自分の喋りをさらに整理できるように、ブログも使ってみようと思います。
 
まず第一回は、これをやっている私の立ち位置と、私からみたときの「入門書」の立ち位置についてです。
 
 
 
 
関です。
 
囲碁インストラクター的なことをしております。
「囲碁アート」までひっくるめ、囲碁のことを色々やって生きています。
 
初台囲碁クラブさんや、こちら平井の本棚さんでの囲碁教室。
最近ですと翔和学園という学校で、子供たちに囲碁の授業をはじめました。
 
自分より強い人でなければ笑、どなたにも良いお手伝いをしようと頑張っているわけですが、いま中心となっているのは級位者の人、そして囲碁をこれから覚えようとされる人です。
9年ほど生徒さんと接する中で、「囲碁入門」をはじめとして、囲碁とか気持ちとかを良い方に向けていくことの積み重ねを得ることができ、その点で皆さまのお手伝いをしているという状況です。
 
 
そういうお仕事なので、「究極の囲碁入門法」ですとか、「新しいメソッド」みたいなのを期待されることがあるのですが・・
 
強いて言えば、自分が目指していることは二つだけ。
「会話する」、「お相手がくれた時間を良いものにする」です。
 
多数の人に(何十パーセントとか)伝えやすい方法はあるかも知れませんが、すべての人に伝わる奥義があるほど、人間は狭いものではありません。
人間はひとりひとり唯一無二で、新しい存在です。
ゲームとしての囲碁は変わらないものではありますが、「人間×囲碁」の「×」の部分は、歴史上、まったく同じであったことはありません。
 
「陣地」というものを見せられたとき、その人の目にどう映るか。石取りはどうか。
どちらのほうが、どれくらい得意で、飲み込みやすいか。
勝った時、負けた時、どう思うか。勝負をしたいか、そうでもないか。
石が離れているほうが好きか(前半戦が好きか)、くっついている方が好きか(後半戦が好きか)
その方がどんな日々を送り、囲碁はどの位置にあるか。私生活全部聞くわけじゃないですよ、念のためw
 
・・・などなど、ぜんぶ違います。
目の前の人と接することができる立場にある私としては、なんらかコミュニケーションをとることで、少しでも相手のことを知って、この違いに寄り添うべきなんです。
それをしないで唯一無二の適切な言葉を選ぶことはできませんし、囲碁の上達においても最良に近くなるんじゃないかと思います。
 
共通事項に思える囲碁のルールを話すときも、
お相手に確認したり、感想を聞いたりして、会話になって、あらぬ方向にいったりして・・・
結果的に、毎回けっこう違うことをしゃべっているものです。
それが自分のお仕事に課された責任、といえるのではないか。
うまくいったとき、ああ、自分がこの役目しててよかったのかもな、って思いますし
お互いにとって、良い時間になったといえるのではないか。
もちろん簡単なことではありませんから、毎回が修行です。
 
このように頑張っておりますが、
そのかわり、私ひとりがお相手できる人数は限られています。
幸いにも、良い先生がどんどん囲碁界に生まれているので、分業的にはなっていると思います。
 
 
 
さてようやく「入門書」です。
そんな私は、入門書を書くことができるでしょうか?
 
これが、たぶんまだノーなんです。
同じ「入門」であったとしても、やっていることが全然違います。
 
入門書は、書いて世に出したとき、何千冊何万冊と同じものが複製され、あとから書き換えることができません。
改訂はできますが、いったん人の手に渡ったものは、永久にそのままの内容となります。
 
得意なこと、勝負への考え方、まったく違う生活・・・どんな人が手に取っても、同じ内容が書いてある。
前述の私のスタイルと真逆ですね。
 
そのかわり、入門書は全国の書店に並び、最近ならネットで注文され、何千人何万人に届けることができます。
これは、私にはできません。
それゆえ入門書の内容には、人間が直接囲碁を教えることとは別の、独特な使命が課されることになります。
「どんな人にも伝わるような、普遍的な内容を目指す」ということです。
 
考えるほどに、気の遠くなるような大変な仕事だと思わされます。
相手のことが全く見えないのに、囲碁について、ある内容を書く。
にも関わらず、それがある人の囲碁のスタートになる。
 
囲碁してみたい。とりあえず本屋いってみよう
ってなり、入門書を買ったとして。
もし、挫折してしまったら・・・
 
その人はおそらく、当分は囲碁に触らないのではないか?
「じゃあもう一冊」、ってなりにくいでしょう。
囲碁の「入門書」を読んでもわからない、という体験をしてしまったら、
つまりそれは、「自分には囲碁が分からない」と言われたようなもの、となっても仕方ないです。
私だったら多分そうなります。
なんと、責任重大・・・!
 
 
この課題に、入門書は、どうやって対処してきたのでしょう。
それはやはり、「蓄積」とでも言うべきものです。
一人でいいものを書き上げるのではなく、百年単位の経験で作り上げていくのです。
数多くの入門書が出されました。手堅いものから意欲的なものまで、いろいろなものがありますが
評判が出て、影響を与え合って、より普遍的に・より多くの人が分かるものが作られてきました。
当日に流れを追っていくことになりますが、
1990年代位からは「現代入門書」とでも呼びたいスタイルが定着して、スタンダードになったように見えます。
 
 
囲碁という世界の一つの入り口。
そこは、性別、年齢、好み、思想、宗教・・・どんな人にも開かれています。
うまく通れないこともあります。
 
明治から現代まで入門書をたどってみると
 
すんごく入り口が狭いけれど、仲間が待っているから、頑張って通っていた時期
まだ通れないことも多いけれど、だんだん入り口が大きくなっているのがわかる時期
大きな入り口が沢山あって良くなったが、一人でやることになりやすい時期
特定の人たちにだけ、奥の方から、なんか違う視線がずっと注がれている・・・
 
のように、入り口(入門書)の流れと、その周辺のありようが、ちょっと見えてきました。
 
 
長くなりましたが、こんな感じのお話をしようと思っております。
次回の更新では、今回集めた入門書を、ざっと紹介する予定です。
 
ではまた!

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