食べ物は、国がとやかく言うより、ビジネスや文化として対応すべき。また教育もその様な文化度の反映である、といった内容だが、以下。
農水省は、食料産業クラスター事業の推進を始めた。産業は集積が大事と言ってきた者からすれば、遅きに失した観もある。要は、マーケットインの発想が、全体を貫けるかであろう。
20年前、宮城県の農家の人たちを様々な食産業者と結びつけたことがある。コメ業者と結びついた中新田農協は、レトルト米飯を開発したし、桃生町や米山町は、仙台ホテルと結びついて様々な食材を開発した。彼らの交流の場として「瓜の会」を作り、情報発信を続けた。それから20年、政策もやっとその必要性に気付いたようだが、課題も多く見えてくる。
農業側にあの当時のような人材や主体が見あたらないということだ。食料自給率の低下は、そんな農業側の問題でもある。本来食料問題は、国家戦略であるべきだが、それを政治マターとして対応しすぎた「ツケ」がある。食料戦略は、文化やビジネスとして展開する必要があるとつねづね思っている。ファーストフードはアメリカ発のビジネスだし、フレンチはフランスの文化だが、共に国家の個性を特徴づけるものとしてある。
日本も、すしや日本料理を世界に向けてビジネス展開しているが、フランスと唯一違うのは、田舎町にあるレストラン、「ミッシェル・ブロス」になぜ人々が訪れるのか、である。おそらく、文化があり品格があり癒しがあり、パリに負けない料理がそこにあるからだろう。また、シャトーからいいワインが手に入るからではないか。
我が国を翻ってみた場合、戦後農村にはこうした文化が根付かなかった。民芸運動があったし、いい酒蔵があったはずなのに、農村の誉れとして定着していない。日本料理が悪いのではない。先日行ったフレンチ「ベージュ東京」のスープはなんと、漆の椀にエビ。これは明らかに日本料理だった。アスパラ料理も、実に繊細な味を出していたが、これなども旧来のフランス料理にはなかった味。世界のフレンチを見ても、醤油など、和食の味が生かされ始めている。私は、炊飯事業もジャパンスタンダードを作った方がいいと口を酸っぱくして言って来た。
日本の食事は世界に冠たるものがあるが、農産物の作り手が手薄になっている。作ればいいというものではない。知性が必要だし文化が必要だ。それを「知的なハレ」(拙著『個の時代のむらと農』参照)と言って来たが、いまはやりの言葉で言えば、「品格のある農」の創出である。
今の農村の人々だけでそれを作れるとも思えない。もっと企業の力を借りるべきだろう。「一の蔵」が農業をはじめ、「和民」が野菜を作っているが、すべて食の文化に直結させている。ビジネスとして展開すれば、付加価値も増加する。ある東北の県は10年前3千億あった農業産出額がいまでは2千億になってしまった。農家も企業も一体となって食産業を振興すれば、その価値は否が応でも高まるのではないか。土地や資金は有限でも知恵は無限なのだから、みんなでその知恵を出せばいい。
食の文化やビジネスに自信を持つ農村を作るのが、私の夢だが、食料産業クラスター事業は、果たしてそんな夢をかなえてくれるのだろうか?
「企業の力を借りて」、などといったらまた農村の誰かが反発するのだろうか?こんなことを考え始めて20年、夢はまだ実現していない。道ははるかに遠い感じもする
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