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谷崎潤一郎が阪神間に永住した21年間の足跡を辿る自転車ポタサイ

2016年04月27日 | 兵庫県内サイクリング
4/24に芦屋ルナホールにて1959年版映画『細雪』を鑑賞してきました。撮影は1958年なので今から58年前の事です。
古き阪神間の風景が撮影されたとの期待で観てきました。芦屋川を中心に夙川や甲陽園、神戸(舞子)や淡路島までロケ地として撮影されていました。

そこで谷崎潤一郎が満37歳から59歳まで阪神間を13ヶ所も転居を繰り返した寓居を自転車で巡ると共に、長編小説「細雪」に書かれている場所と映画化されたロケ現場も合わせて巡りました。

谷崎潤一郎が阪神間に永住するきっかけは、大正12年の9月1日の関東大震災に遭遇した事によって始まります。
平成28年熊本地震(4月14日)が起きたばかりで心が痛みます。

谷崎潤一郎が阪神間で居住(寓居)した家も昭和13年阪神大水害の影響や、昭和20年神戸大空襲、更に平成7年の阪神淡路大震災(私自身も当時苦境に立たされました)が起こり、この様な事で居住した家が殆ど残って無いのが実情ですが、当時はどのような環境立地の中で文学に携わっていたか、分かる範囲で自転車で棲み家探しに走りました。


谷崎潤一郎は関東大震災後は、一先ず友人の芦屋市に落ち着いた後に、妻(千代)と長女(鮎子)を連れて京都での生活が始まりますが、京都住まいの二ヶ月後の12月には京都より温暖で閑静な苦楽園万象館に移り変りました。ここからが阪神間での永住の始まりになります。






順番に巡ります。
夙川から上って来るとここは阪急バス路線の苦楽園バス停です。以前にも書きましたが明礬温泉場がある苦楽園ラジウム温泉地一帯だった所です(写真下)。


振り向いた苦楽園バス停の下り坂辺りは、谷崎潤一郎が阪神間に初めて訪れたとき活用した共同温泉施設があった場所ですが現在は面影が全くありません(写真下)。


バス停の三笑橋(旧山椒橋)を渡ると苦楽園交番所があります(写真下)。


交番所から少し西へ行った所から右の坂道を上って行くと石塀が見えてきます(写真下)。


ここが谷崎潤一郎が阪神間で最初に寓居した万象館跡です。武庫郡大社村越木(西宮市苦楽園4番町6)。
大正12年(1923年)12月から4か月程の短い間でした(写真下)。



万象館の反対側には六甲ホテル(苦楽園4番町)当時の越木岩字山椒ケ原です。現在は新しい邸宅が並んでいます(写真下)。


更に上って行くと小さな苦楽園四番町公園があります(写真下)。


公園内には左に下村海南の歌碑と右に徳川大坂城東六甲採石場刻印「分銅形」があります。
下村海南はこの地に邸宅を構え「海南荘」と称し15年も住んだ官僚、新聞経営者、政治家、歌人であります(写真下)。


更に上って行くと堀江オルゴール博物館があります。現在の入り口はもっと上にあります(写真下)。


ここが入り口です。春の庭園特別公開が4/28~5/15まで開催されるのでその時にもう一度訪れてみようと思います(写真下)。


高台なので間から見える眺望の良さがお分かりでしょうか。
昭和初期にかけて大阪の富豪が挙って苦楽園に別荘を構えたのが好く分かります(写真下)。


大正13年(1924年)3月に潤一郎は苦楽園から2ヶ所目の居住地の武庫郡本山村北畑字戸政(神戸市東灘区本山北町3丁目9-11)の借家で文学に励み『痴人の愛』を執筆しました。
現在はマンションとなっていて、向こう隣りは本山第一小学校の児童館とグランドです。
阪急電車と国鉄(JR)に挟まれ、更に国道の南には阪神電車もあり、しかも子供の学校も隣でとても利便性が良かったようです。


大正15年(1926)10月の秋
には本山村北畑から3ヶ所目となる武庫郡本山村栄田259‐1(東灘区岡本7丁目3)の文園二号に転居(現在の写真下)をします。
好文園は昭和初期に「伊藤萬」の経営で開発された集合住宅の地区(深江文化村に似た中央に広い空間)で、一帯には泉水やテニスコートがありましたが今はすっかり変わってしまいました。


近くには当時の名残りの好文園パーキングがありました。谷崎は昭和2年1月(1927)好文園二号から好文園四号4ヶ所目の転居をしています。


周辺は好文園近くを流れる天上川(栄田橋から)と阪急神戸線です。東側には岡本南公園(桜守)があります。


ここは阪急岡本駅より南西にある岡本好文園ホールです。岡本商店街振興組合の拠点となっています。
資料がないか尋ねましたが好文園の資料はありませんでした。


好文園があった旧武庫郡本山村栄田259‐1から北へと上って走るとここが旧武庫郡本山村梅ノ谷です。
谷崎の住まいは写真下の邸宅から左へ4軒奥の所にありました。


昭和3年(1928年)秋
、兵庫県武庫郡本山村梅ノ谷1055(東灘区岡本7丁目13)に民家を譲渡してもらい理想の豪邸に増築し、初めて自分の持家となった谷崎邸「鎖瀾閣」(さらんかく)です。これが5ヶ所目となりましたが多額の借財の返済で結局売りに出す事になってしまいました。

「谷崎潤一郎記念館資料から」引用


ここでは『蓼喰ふ蟲(たでくうむし)』を執筆しましたが、昭和5年(1930)に千代夫人と離婚しました。

鎖瀾閣は平成7年の阪神淡路大震災で無くなってしまいましたが、現在は梅谿庵(梅渓庵)と言う名のアーチ門がある邸宅になっていました。昔の梅ノ谷(谿)から名付けられたのでしょうか。


鎖瀾閣の坂道からの眺望も中々いいですね。当時は鎖瀾閣の周りは梅林があり、瀬戸内は淡路島も見渡せる眺望で、念願の場所だった様です。


一旦下って裏の背谷川の上背谷川橋から見ると木陰で見えませんが、手前の家から2番目が鎖瀾閣の場所の家です。



ここで少し寄り道です。
ここは有名な西宮市にあるマンボウトンネルです。


明治初期に農業用水路として作られ、後に歩行者用通路に転用されました。長さ22メートル、天井まで1.7メートル、レンガ造りのアーチが近代風格の面影を残しています。


4姉妹の華やかな日常を描いた長編小説「細雪」(1943~48年)に幾度も登場するのがこのマンボウトンネルです。


マンボウトンネルから一筋東の道を北へ行くと一本松があります。これも長編小説「細雪」に登場します。


一本松には一本松地蔵尊武庫群と兎原郡の境界碑「史跡往古武庫菟原郡界傳説地」もあります。(西宮市常磐町4丁目)。


この町に来たら必ず寄るフリアンド(FRIANDE)のパン屋さん。いつ入店しても混雑してます。(西宮市若松町3丁目)。


夙川に来たら渡ってみたい橋があります。前回も載せたました「こほろぎ橋」です。
4/24日に芦屋ルナホールで観た『細雪1959年版、大映映画』京マチ子、山本富士子出演のそのロケ地の橋です。
このアングルと・・


奥畑(川崎敬三)と板倉(根上淳)が言い争う場面がこのアングルです。当時のままですね。


さて、こほろぎ橋から阪急甲陽線の踏切を渡り・・
昭和6年(1931)11月には武庫郡大社村森具字北蓮毛847(西宮市相生町12丁目14)の根津家別荘6ヶ所目の転居をします。(写真右端手前の少しだけ)。


別荘に移る前には4月に2人目となる丁未子夫人とみこ夫人)と結婚し吉野で4ヶ月過ごした後、ここ根津家別荘の別棟で居住しましたが僅か3ヶ月半だけでした。小高い場所にあります(写真下)。
根津松子夫人との仲が怪しくなって行くのがこの頃です♪


昭和7年(1932)2月には夙川の根津別荘から魚崎横屋に転居します。(写真下)。
ここが7ヶ所目となった魚崎町横屋川井550番地(東灘区魚崎北町4丁目7)。トラックが止まっている家ですが、少し前まで米やタバコの商店を営んでおれました。
撮影場所の坂道の上には12体の地蔵尊が道脇に祀られています。


二ヶ月後には直ぐ南に位置する魚崎町横屋字川井(西田)431-3(東灘区魚崎北町4丁目6)へ8ヶ所目の転居をします。(その隣に別居中の根津松子夫が住んでいたのです。あれま・・)(現在の写真)。
近くには住吉川と灘中高の学校があります。




昭和7年(1932)12月には本山村北畑字天王通り547-2井谷家の借家へ9ヶ所目の転居をします。
今も昔の面影を残す井谷家母屋です。


井谷家母屋横の小道を挟んで西側にあるのが9ヶ所目の井谷家借家(東灘区本山北町5丁目11)(写真下)で、この時すでに丁未子夫人と半ば別居状態だったそうです。
この近くには保久良神社への参道へと繋がっています。


井谷家の東側は風呂の川が流れていて鬱そうとしています。


昭和8年(1933)7月には、同じく井谷家借家で本山村北畑西ノ町448(東灘区本山北町5丁目10)は井谷家母屋の南側にあり10ヶ所目の転居となります。
現在のパステルグリーン壁の家です(左端が井谷家)。写真下。


少し西へ行った本山北町6丁目17-12に潤一郎書の「馬酔荘」の額が掲げられた門があると言うので探しましたが、たぶんここだと思われます?(丁未子夫人が別居中、身を寄せていた元妹尾邸)。



昭和9年(1934)3月には武庫郡精道村内出下宮塚16番地(芦屋市宮川町4-12)に11ヶ所目の転居をします。
それが富田砕花旧居(元は富田砕花の義兄の持ち家)で阪神電車より南側で宮川から西へ100mの所にあります。



三人目となる松子夫人と同棲生活が始まり、まだ入籍していなかった丁未子夫人との結婚届けを出しますが、戸籍上の形だけで結果として丁未子夫人と離婚をして、翌年の昭和10年1月に松子夫人とここで婚礼をあげます。小説『猫と庄造と二人のをんな』の舞台とされた旧居です。


(詩人富田砕花の歌)。「細雪源氏の君の かかわりを わが庭に遺す 擬春日燈籠 富田砕花」 


富田砕花旧居は耐震補強工事のため、平成27年12月1日から平成28年4月30日まで休館になっています。5/1から開館(日・水曜日)10時~無料(塀越しに撮影しました)。


『追記』
5/1に富田砕花旧居を見学しました。




戦災で残った灯籠(春日燈籠)と松は当時のままです。






ちょっと一服。
芦屋高校前交差点から芦屋温泉の通りは花水木通りと言います。この季節になると実感しますね。


ここは谷崎潤一郎記念館です。松子夫人が打出(富田砕花旧居)での思い出が強かったので希望により芦屋に記念館を建てたそうですよ。


西隣りには芦屋市立美術博物館があります。


またまた『細雪1959年版、大映映画』のロケ地の場所ですが、阪急芦屋川駅から北へロックガーデン(高座の滝)へ行く途中の開森橋から次にあるのが大僧橋です。
橋の向うに見えるのが蒔岡家の分家(二女幸子)の芦屋の家になっていたロケ地です。


向う岸で遊ぶ子供たちもこのアングルで撮影されていました(ロケ地)。




芦屋川の開森橋の南に位置する三角地帯に「細雪記念碑」があります。


松子書と刻まれています。優しい書体です。


ちなみに甲南小学校の外塀に設置されているのは潤一郎の書です(3/7撮影)。


裏面には細雪に書かれている昭和13年の阪神大水害の芦屋川の様子が刻まれています。


記念碑から南へ行くと桜橋が阪急芦屋川駅と平行にあります。(昭和34年に交通増量の為踏切から高架路線化されます)。
橋桁を見ると昔のコンクリート石桁の上に鉄桁を組んだものでした。当時は道路(踏切)と同じ高さの桜橋だったのです。


桜橋から見た山手サンモール商店街通りです。



細雪1959年版、大映映画』ロケ地。
芦屋川駅の南改札口が初めと終わりのシーンに使われました。


芦屋川駅から南東方向へ下った所からもこの様にロケされました。山並みはだけは同じ♪


一番下流の鵺(ぬえ)塚橋より下の松林道もロケ現場となりました。


それにテニスコートもロケ現場となりました。



話が戻りますが
山手サンモール(商店街)の入り口直ぐに重信医院があります。スクラッチタイル(表面を櫛で引く)の塀に囲まれた洋館です。


長編小説『細雪』に書かれた櫛田医院のモデルになったと言われるのが重信医院なのです。
当時の重信医院長は芦屋に住んでいだ谷崎と親しくて、よく往診に行っていたそうです。


山手サンモールを西へ走ると老舗の御菓子司 杵屋があります。
ここも当時の杵屋さんが「細雪物語」のお菓子を作る許しを谷崎潤一郎にお願いし、喜んで頂けたようです。


今でも伝承されている「細雪物語」は松子夫人も好んで買われて行かれたそうです。「潤一郎細雪」はH27年に新しく創られたものです。美味しかったですよ♪



住吉川の反高橋右岸にはお馴染みの倚松庵があります。
打出の富田砕花旧居から転居したのが倚松庵です。右岸沿いを這うように六甲ライナーが走っています。


昭和11年(1936)11月から7年間も暮らしたのが12ヶ所目となる反高林の倚松庵です。「源氏物語の現代語訳」を3年間費やします。
今は改修工事で来年の2月まで(予定)入館できません。(東灘区住吉東町1丁目6)



倚松庵は元々150m南の東灘区住吉東町1丁目7(写真下)にあり、六甲ライナーの建設のため平成2年に移築されて現在に至っています。


移築前の南には六甲ライナー魚崎駅(阪神魚崎駅と連結)があります。


昭和18年(1943)11月最後の13ヶ所目となるのが移築前の倚松庵地から向う岸(左岸)、武庫郡魚崎町魚崎728-37(東灘区魚崎中町4丁目9)が魚崎の家です。手前(左)の黒い屋根が谷崎の転居地です。


左岸の南から見た現在の写真(黒い塀と屋根)、潤一郎の「細雪」は椅松庵と熱海西山の別荘滞在で執筆し、ここには余り住んでいなかったようです。
昭和19年4月には空襲を恐れて家族を熱海西山の別荘に疎開させます。


現在の住吉川沿いはライナーや高層マンションが立ち並び昔の面影がすっかりなくなりました。(左が倚松庵)。


ここは住吉川上流の清流の道公園から眺めた風景です。阪神間は少しだけ坂道を登れば海の眺望ができる立地なのです。


昭和20年(1945)8月5日
の阪神間大空襲で魚崎の家も焼失してしまいました。中でも「川西航空機工場」(現新明和工場)東灘区青木がB29の爆撃の的に曝されました。
岡山勝山に疎開後、昭和21年(1946)11月には京都市内に転居し、熱海、伊豆山、東京目黒台、湯河原と移り変り満79歳(昭和40年(1965)7月30日)で亡くなりました(没後51年、誕生130年)。

探し出すのに丸2日掛りました(完)。
(参考)谷崎潤一郎の阪神時代 市居義彬(昭和58年著書)と協力者 は相方さん♪

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