MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバンと、絵画4人展「はるのすみっこ」コラボ企画。公式サイトはこちら 井上優作 道塚なな音楽 笹本志穂(劇団民藝)企画 西村俊彦、丸山港都、浦田大地、笹本志穂出演 根津/タナカホンヤ 3月25日14時、16時の2回公演
地下鉄根津駅から徒歩数分、賑やかな通りから少し静まった辺りの古本屋「タナカホンヤ」での朗読公演である。芝居好きなら、タイトルを見ただけでさまざまな想像や妄想が沸くであろう。異なるふたつの作品をどう絡ませ、新しい物語に構築するのか。
原作の時代を現代に置き換える、舞台設定を日本にする等々、翻案された作品や演出は枚挙にいとまがない。うっかりすると安易な作りになり、あざとく感じられると見ていて楽しいものではないが、本作は翻案やパロディの域を超えた新しい劇世界であり、観客を遠いところへいざなう魅力を有する。そういう作品をどう名付ければよいか。本稿ではひとまず「出会い」と呼んでみることにしよう。
「銀河鉄道の十二夜」…宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」とシェイクスピアの「十二夜」を出会わせたもの。卒業式を明日に控えた男子高校生オーシーノーとセバスチャン(シザーリオと名のっていたかも)のふたりが下校途中、大きな揺れで乗っていた電車が止まった。動きそうにない電車のなかで、ふたりとオリヴィアという女生徒、マルヴォーリオという人望のないクラス委員をめぐるあれこれ、セバスチャンの双子の妹ヴァイオラが実はオーシーノーを…といった「恋バナ」が語られるのだ。他愛もないが、少年から青年に成長する時期の不器用で瑞々しいあれこれである。生き別れになった双子の兄妹が再会するまでの大騒動を描いた「十二夜」が、ここでは「銀河鉄道の夜」のふたりの少年カンパネルラとジョバンニに重ねられている。さらに冒頭起こった大きな揺れとは、おそらく311の震災と思われ、セバスチャンの「明日の卒業式には出ない」「おまえ(オーシーノー)は線路づたいに歩け」という台詞から、彼が死にゆく存在であることを控えめに伝えるのである。
「熱〇殺人事件、みたいなヴェニスの商人」…つかこうへいの名作「熱海殺人事件」と、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」まさかの出会いである。証文通りに肉1ポンドを切り取るかどうかという裁判が、いつのまにか、その行為に至らんとしたユダヤ人商人シャイロックの動機をいかに強烈で説得力のあるものにするかという話になっているところが本作の旨みである。極めつけはあの名台詞「海が見たい」。観客と俳優の膝が触れ合うほど小さな空間での熱量の高い芝居ゆえ、開演前は「どうかご了承を」のアナウンスがあったが、そこがむしろ効果を上げていたのは、俳優の演技が的確で巧みであったことと、話の仕掛けや展開がおもしろく、会場の狭さなどの観劇環境をしばし忘れさせてくれたこと、全体を通して好ましい舞台であったことが要因であろう。少しでもあざといと感じたら、1分で嫌気がさす。
古典作品の場合、今日性、現代性、普遍性をどう見せるかが上演の大きなポイントであり、演出家はじめ作り手の多くが頭を悩ませ、試行錯誤する点であろう。今シェイクスピアのこの作品を上演する意義を明確にし、それを観客に示すのが使命であるという強い意識であり、その情熱あってこそ観客もまた夢と期待をもって劇場に行けるのである。しかしながら、あまりにこだわり過ぎると作り手も受けても作品に縛られ、自由を失う危険性もある。観客側からすれば、「あの作品をどう見せてくれるのか」と、ことさら「見せ方」を重視する見方に陥り、「現代性を見出さねば」と強張った使命感に陥りやすいのである。
ふたつの物語を軽やかに出会わせた今回の2本は、作り手受け手双方の使命感からある意味で解放された好ましいものであった。先月の「唐十郎×シェイクスピア-シェイクスピア幻想-」と同様、理解や考察を目的として肩に力の入りがちな観客の心を柔軟にし、さまざまな作品を自由に味わえる企画が今後も生まれることを祈っている。
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