因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

名取事務所公演『淵に沈む』 

2025-03-10 | 舞台
*内藤裕子作・演出 公式サイトはこちら 下北沢/小劇場B1 16日まで(内藤裕子関連のblog記事→『かっぽれ!』シリーズ4作含むgreen flowers公演の記録、劇団内外作・演出および演出 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15)。

 本作は、2023年2月に発覚した東京都八王子市の精神科病院「滝山病院」で起こった看護師らによる患者の虐待事件(参考)をモチーフに、『灯に佇む』(2021年9月/blog記事)に続く内藤裕子の医療作品第2弾である。今回も当日リーフレットには本作鑑賞にあたっての用語解説などの資料が折り込まれており、作り手の熱意が強く伝わってくる。

 当日リーフレットによると、内藤裕子が本作のテーマに取り組んだのは2023年2月放送のNHK・ETV特集「死亡退院~精神医療・闇の実態~」がきっかけであるとのこと。事件はまことに痛ましく、社会の暗部を抉り出す凄惨なものであるが、驚くべきは、この病院の院長が過去にも同様の事件を起こしていたこと、にも関わらず刑事責任を問われないまま、新しい病院を創設したという事実である。また滝山病院、やまゆり園の前にも、多くの事件があり、問題がいかに重く深く、解決が困難であることに慄然とする。

 多くの精神病患者を抱える室田病院が舞台である。開演前は何も置かれていない。奥と下手にドアがあるのみである。演じる俳優が場面毎にテーブルや椅子、家具調度などの出し入れを行い、病室(最初の場面は隔離病棟の一室か)、医師の控室、談話室、院長室、会議室など複数の場所で物語が進む。手際よい進行である。

 入院して20年になる統合失調症の上原祐介(西山聖了)が寛解段階にあるとして、主治医の片山(鬼頭典子)、精神保健福祉士の武井(歌川貴賀志)、祐介の母直子(岡本瑞恵)は、彼の退院を目指して話し合いを進めている。看護師の小谷(今井優香里)や看護助手の安藤(小栁喬)も協力的だ。そこにラスボスのごとく立ちはだかるのが、院長の室田(田代隆秀)である。

 滝山病院の事件がモチーフと知って、相当にハードな展開を予想した。フィクションの芝居とはいえ、疲弊して追い詰められ、仕事の誇りや喜びをなくした医療者の荒んだ様相を目の当たりにするのかもしれない。ほとんど恐怖である。しかしそこには名取事務所と内藤裕子、信頼する俳優、スタッフによる舞台がどのようになるのかという期待も確かにあった。

 理念と現実、良心と邪心(もっと適切な言葉がほしいが)がぶつかり合い、苦悩と葛藤の末に決裂するか和解に導かれるか、その過程において、それぞれの人物の心象が炙り出され、変容する。温かい人柄でエネルギッシュな片山、誠実と優しさの塊のような武井は、さまざまな困難にあっても挫けない。「この二人なら大丈夫」という盤石の安定感がある。一方で若い小谷と安藤はまだ不安定で脆い。力のある者は彼らにすかさず刃を向け、良心の砦を破壊するのだ。

 恐怖の予感すら抱えて観劇に臨んだ側としては、希望のもてる結末に安堵している。しかし冒頭の場面で罵声を発したのは、最後まで登場することのない、暴力を振るった医療者であろうか。彼らはこのあとどうなったのか。辛抱強く愛情深い母親と、良心的で温かく易しい医療者を軸に展開する物語から、荒んだ医療者と希望を持てない患者、沈黙する家族、そこに安住する権力者は後景に退いてしまい、取り残された印象すら抱くのである。

 片山は左手の薬指に指輪をしていた。プライベートは大丈夫なのか。『灯に佇む』の心優しき老院長の面影をまったく留めない田代の室田院長には、父親が精神病院を経営していたことによる子ども時代の心の傷、精神科医が医師のなかで低く見られていることなど、ここに至るまでに相当な葛藤と苦悩があったのではないか。彼の主張はある意味で正論であり、言葉遣いや立ち居振る舞いなどが「悪役」に終始した造形だったことが残念だ。祐介の退院に反対する兄(登場しない)ともに、対極にある人々が気になるのは、仮に自分の身内が心を病んだ場合、果たしてどのような心持ちになるかを想像することが恐ろしいためである。

 劇中、登場人物が日本国憲法はじめ、精神保健および精神障害者福祉に関する法律など(参考資料に折込あり)を読み上げる場面がある。『カタブイ』にもある手法だが、聴き取って内容を理解し、劇の鑑賞に反映させることはむずかしかった。また本作には、人々に救いと希望をもたらす大切なモチーフとして、珈琲の焙煎がある。実際に珈琲を淹れる場面があって、必要だとは思うのだが、劇の流れが止まる感覚があったことは否めない。

 従来にない切り口で教育問題を描くテレビドラマ『御上先生』(TBS)の脚本を担った詩森ろば、歴史上の事件に関わった人々の凄まじい様相を描く古川健、ビジネスや政治の現場の激しさを生々しく見せる中村ノブアキなら、この問題をどう描くだろうかとも考えた。

 しかしわたしは、内藤裕子のさらなる挑戦を見たい。たとえば祐介役の西山聖了は、心を病む人を緻密、繊細に、しかし作り込みの手つきを感じさせずに自然な演技で表現した。文字に置き換えられない、ため息のような「ああ」といったひと言や、ほんの少し表情を変えるところは、内藤作品の魅力であるテンポのよい軽やかな台詞のやりとりを時に妨げるが、そうすることによって本作にしかない、味わいや悲しみ、リアルな手触りが感じられた。これまでの内藤作品にはなかったものである。内藤の演出が的確であり、俳優がそれに応えたことの証左ではないだろうか。どれほど重苦しく困難な題材であっても、そこにユーモアを織り交ぜ、日常に生きる人間の言葉で生き生きとした劇世界を展開する、映像では描けない内藤裕子の舞台を、もっと味わいたいのである。
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