福山雅治は、自分にとって少々困った存在であった。はじめてみたのは十数年も前、内館牧子脚本の『あしたがあるから』で、計算高い若者を演じていたものである。すらりとした長身のハンサム君ではあったが、特に際立ったものは感じられず、その後の出演作もあまり印象に残らないまま、彼がどんどん売れっ子になっていくのを不思議に思っていた。自分が最も困惑するのは、福山を俳優として認識する(いや、認知か)のにためらいがあるからだ。かといってミュージシャン、アーティストと括るのにも抵抗があり、今回何と大河ドラマに抜擢され、しかも幕末が生んだ国民的ヒーロー坂本龍馬を演じると知って、困惑はさらに深くなった。
一昨年になるか、『ガリレオ』のスペシャル版をみたときは、さすがに「悔しいけれどかっこいいわ」と思った。「悔しいけれど」のひとことは、堤真一や藤原竜也、小栗旬など、俳優一筋の方々に対して、ミュージシャンとしての印象も強い福山のことを同じ「俳優」としてみることに抵抗があるためだろう。これはモデル出身の俳優さんに対して抱く気持ちに似ているかもしれない。困惑、抵抗という言葉が多いな・・・。素直に「いい」と言えないのである。
第1回の放送をみた率直な印象は、やはり「悔しいけれどかっこいい」。タイトルバックからして福山を前面に押し出して、彼の魅力を最大限に表現していることや、年末からの番組宣伝の多さや、放送前日の『プロフェッショナル 仕事の流儀』でスペシャル版を組んだことにも、NHKの例年とは違う相当な気合を感じる。
びしょぬれ、泥まみれのシーンが少し多すぎないか。後半龍馬と弥太郎が上士に散々いたぶられた挙句、川に落ちてしまう場面がある。上士に突き落とされるのではなく、上士が去ったあとに2人が組み合ったまま勢い余って転落するのだが、いや、そこまでする必要があっただろうか。上士からみれば下士は犬猫同然で、身分の違いは一生変わらない。絶望的な閉塞感、怒り、悲しみはいかほどであっただろう。しかし両者の善玉、悪玉的でステレオタイプな人物描写や、諍いの原因がどれも似通った状況であることなど、もうひとひねりほしい。
主演の福山はじめ、作り手側がいい意味で「大河慣れ」していない雰囲気は新鮮で好ましく、それがあざとさに変容しないことを願う。
せっかく1年間続くのだから、大いに楽しんで大河ドラマを味わいたいものです。今日はその第一歩になりました。肩の力を抜いて、できれば続けて書きたいと思っています。どうかお付き合いくださいませ。
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