Miraのblog

小説はじめました

吉祥寺「俺たちの旅」編 1

2024-04-20 09:42:22 | 小説「俺たちの旅?」

小金井界隈のパチンコ屋が新装開店したが、新しくなった機種が渋く、小遣い稼ぎに苦労し始めた。

 昭和50年の夏は、忙しかった。学生最初の夏休みということもあり、スケジュール満載だった。

先輩や同級生たちが、入れ替わり立ち代り、小生の田舎に遊びに来るという。イカを沢山食べたいという。その接客もあるのに、「つま恋」が中途半端な時期にあった。

今では、伝説となってしまった「つま恋ライブ」吉田拓郎の全盛期のイベントに、松岡君が誘ってくれて、軽音の連中も何人か行くという。気合をいれて、前売り券を買ってしまった。

そこで、夏休み前半に小生の故郷に行きたい人は、私がいない時期(8月上旬まで)は勝手に行ってもらい、小生の両親が面倒をみた。

この話は、今、思い起こしても、相当面白いが、残念ながら今回は「つま恋」や「小生の故郷」の話ではない。

 「つま恋」さえなければ、神戸開催の全国国公立大会にも参加できたのに、と贅沢な気分の充実した夏が終わったころの話だ。

 パチンコで、小遣い稼ぎに苦労し始めたのは、小生ではなく、小島さんだった。「明日、吉祥寺にしようぜ」と北口のダイヤモンドで打ち止め寸前の小生に、うしろから声をかけた一年上の先輩だった。

 小島さんは、新装開店後不調で、古い機械が残っている吉祥寺のツバメパチンコに行きたいという。

 確かに、天は渋く玉が引っかかるが、妙にぶっこみからの距離と角度があっている新台で、一台目を20分、二台目は11時半には止めて、3台目を午後2時ごろ終了しそうな絶好調の小生に対してであるので、やっかみとも取れなくもないが、吉祥寺には行きたかった。

 いとこの姉ちゃんが、久我山に住んでいて、「吉祥寺いいよ」と聞いており、クラスの友達で吉祥寺に住んでいる数人がやたら自慢をする。

 実は2~3回行ったことはあるのだが、何が良いのか分からなかった。分からないのは少し悔しい。

 パチンコ店の開店前に我々はモーニングサービスを食べる。田舎から出てきた小生はコーヒーの値段で、パンとかサンドイッチがついているこのシステムにいたく感動した。

 吉祥寺の北口のコロンビアに9時に入店し、スポーツ新聞を見る。「神戸新聞杯、トウショウボーイ、クライムカイザーで、これは堅いね、テッパンだ」とか、いいながら、あっという間に、モーニングを食べ終わった。

「やっぱり、9時集合は少し早かったですね」なんていいながら、北口サンロードに出た。当時の吉祥寺は人気が出始めたとは言うものの、10時にお店が開き始め、11時くらいから活気がでてくる。

 9時半ごろのサンロードは、ガラガラだった。が、100メートルくらい奥のほうに何か人だかりが・・・「何だろう?」と伊勢丹方向に進む。西友の前あたりに20人くらいの人ごみが・・・人ごみの後ろから、覗いてみると、伊勢丹方向から、カンカンカンと下駄を鳴らしながら走ってくる男が見える。人ごみの前まで、走ってきて、「はあ、はあ~」と息づかいが荒い。大柄な男だった。一瞬、横顔が見えた。「中村雅俊だ!」

 昨年、“ふれあい“がヒットした歌手だ。個人的には好きな歌ではなかったが、高校の卒業アルバムに、男女で手をつなぎフォークダンスを踊る同級生の写真の解説に「ふれあい」と解説文が添えてあり、「女子に人気があるんだ」と了解していた。

 よく見ると、大きなテレビカメラをかついでいる人や大きなマイクを竿の先につけたものを立てかけている人など、10人くらいいる。

 それに、10人くらいの見物人が立っていた。

 「もう一回」、と監督らしき人が言うと、中村雅俊さんは伊勢丹の角の信号付近まで、歩いていく、よく見るを北側の通り付近にも野次馬が何人か見物している。

 「よーい、スタート」と声が上がると、中村さんは又「かっかっかっー」という派手な音を鳴らしながら、顔をカメラにむけ、前のめりに走ってきた。

 OK!と監督が言って、この撮影は終わったようだ。

 「次は公園」とか怒鳴っていたスタッフらしい人に、「これって、何ですか」と小生。

 「10月から、日曜日の8時にあるから見てね。4だよ。4チャン」

 

 「おぉ~、テレビか!」「中村雅俊って走るんだ」と、今風にロケという言葉をしらない小生はびっくりした。

 ツバメパチンコの10時の開店に、少し遅刻したが小生はたまたま、いい台に在りつき、午前中には打ち止め。小島さんもまずまずの成果だった。

 昼ごはんを食べて、シャノアールでコーヒーゼリーを食べながら、「小島さん、テレビ持ってます」と聞くと「お前持ってないのか?」

 当時、小生は学校の寮に住んでいたが、ほとんどの人はテレビを持っていなかった。

 食堂に20インチほどの共有のテレビはあったが、1年坊の小生が、チャンネルの選択権はない。

 

 その晩、寮に帰って、いつも入り浸っている4年生の先輩の本田さんの部屋に行った。すると、ベッドの淵に赤いテレビがあるではないか!

 「本田さん、これどうしたんですか?」と聞くと、「ああ!これな、さっき水沼が持ってきたんだ」

 本田さんによると、水沼がもうすぐ入寮するので、先に預かって欲しいと、置いてったという。

 小生は早速、今日の吉祥寺での出来事を報告し、もうすぐ、この番組が始まることを説明した。

 

10月の最初の日曜日、「俺たちの旅」は始まった。

期待を裏切らない内容だった。

小椋桂が作った曲をオープニングとエンディングに中村雅俊が歌い、エンディングのおしまいのシーンには、「じん」とくる言葉がテロップでタイミングよく入る。

小生が見たシーンはなかなか出てこなかったが、一月後くらいの放送に登場し、自慢した。

 番組はちょうど一年くらい放送したが、小生の感性にちょうどよかった。

エンディングの小椋桂の詩に「伝言板の左の隅に、今日もまた一つ忘れ物をしたと、誰にともなく書く」

など、現実にはこのようなキザなことはないが、駅の伝言版は、時間がきっちりしていない人と待ち合わせる時には、必要なツールだった。よく「先に行きます」とか「パティオでレイコー飲んでます」とか「駅前パチンコ100番台付近」などと書いたが、伝言板の上部とか右端とか、おおむね書く場所を決めていた。

携帯電話などなく、アパートに電話さえ置いていない仲間が多かった時代、学校に来ないやつに会うのは至難の業で、小生は次回を出来るだけきっちり約束する性格だったが、

「又会う約束などすることもなく、それじゃ、またな、と別れるときの、お前がいい」などと、さりげなく言われると、そうかそれでいいんだ、と救われた。

 「真っ白な陶磁器を眺めてはあきもせず」とか井上揚水と歌ったり、「ぼくは呼びかけはしない」とか訳の分からん奴の歌が、ヒットしてるな、なんで?と思っていた小生であったが、この番組以降「小椋桂は出た時からすごいと思ってたんだ」と友達に吹聴した。

 現にその後も勧銀の銀行員を続けながら、一方歌のヒットメーカーで、美空ひばりの愛燦燦なども名曲だ。「天は二物を与えた」典型である。

 

 しかし、さらに後日、再び吉祥寺でロケを目撃しまう。

 そしてそれが奇妙な事件につながっていこうとは・・・

 

つづく


高円寺北口

2024-04-20 09:40:16 | 移転ー思い出音楽

 高円寺の北口駅前にレイボーというパチンコ店があった。

小島さんが、わずか1列になってしまった手打ち式の台でねばっている。

インベーダーゲームが一世を風靡したころ、パチンコ店は衰退した。

 

 小生は就職するに当って、パチンコ産業再興案を具体的に作成(卒論の何倍も出来がよかった)、そして桐生のメーカーに売り込んだ。が、「大学まで出て、悪いことは言わないから、真面目な世界で働きなさい」という親切な面接官のアドバイスに説得され、学校に求人のあったつまらない会社に就職した経歴を持つ。

また、同じようなジャンルで、ケイシュウニュースに願書を出し、大川さんから返事をもらった。

小生の就職活動話としては、上記2つと、NHKの話は抜群に面白いので、2年後くらいにまとめたい。

 

今日は高円寺の話だ。

 ちなみに、フィーバーでパチンコ産業が復活するには、この後2年を要する。

 

 小島さんは、電動式ハンドルをコインで固定し腕を組んで、パチンコ台を見つめるゲームに成り果てたパチンコが許せなかった。

手打ち式ハンドルをはじく親指に、魂がこもっている、同時に哀愁を感じながら、後ろから声をかけた。

 「やっぱり、ここだった!」と小生。

就職したばかりで、会社の中野の寮に住んでいた私は、小島さんが心配で消息を探した。

 学校で後輩の平山君に聞くと、手打ちの台が残っているのは、レインボーくらいだ。と、小島さんが嘆いていたとの情報で、この町に来たのだった。

 びっくりして振り向く小島さん「何でここにいるって、分かったんだ?」

小生はそれには応えず「そろそろ、真面目に卒業を考えましょうよ」

 小島さんは一つ先輩だが、専門の単位が一つだけ取れておらず、6年生であった。

困ったことに、その専門の単位は教授が退官したので、講義も試験も今年からなくなったという。この切実な問題に対し、小島さんは真面目に向き合っていなかった。

 学生寮のマージャン室で知りあった平山君が小島さんと同じ学科であることが判明し、小島さんの4年も下の平山君にこの問題を託したのであった。

 平山君の調査の結果、本人が大学の教務室に行って相談すれば解決策が示されるはずだ、とのこと。

 OB会などで、先輩たちも小島さんのことが心配で、「お前が一番、小島と接触できるんだから、何とかしろ」と学年も学科も学部も違いキャンパスの場所さえちがう小生に命令した。(先輩達は本部の体育館での卓球の練習と、国分寺での飲み会で小生と喋るので、小生が工学部の学生と知らなかったのだろう)

 先輩の命令が、なかったとしても小島さんには4年間お世話になった。もちろん、ほっとく訳にはいかない。

 小島さんは、府中のアパートから、お姉さんが住んでいる高円寺に最近引っ越したという。

 とにかく、平山君がいる寮に向かった。

寮で探すと、平山くんはマージャン室にいた。

 ちょうどいいので、面子を分けて平山君、米田君と小島さん小生で卓を囲み半チャン4~5回。

夜になって晩飯を食べようということになり、「鳥ふじ」へ。焼き鳥を食べながら、善後策を協議した。

 

 忙しかったのか数ヶ月が経過した寒い日、寮を訪ねた。マージャン部屋を覗くと、いた。

小島さん、平山君、米田君、もう一人は保科君だと紹介された。

「え!何でいるんですか?」小生の質問に、小島さん「寮に入ったんだ」という。

 小島さんは、潔癖症だった。少なくとも、私と接触した4年間は、アパート生活だったし、遊びに行くと女性の部屋のように、きれいに掃除され、整頓されていた。

浜本くん(吉祥寺、鉄男編に登場した)のように、「寮に住んだらどうですか。楽しいですよ」という、皆の誘いには決してなびかなかった。

予想外だったが、夜を食べに行った「徳寿司」で、何となく理由が分かった。

 平山君と米田君は面倒見がよかった。人間味があった。特に平山君は“よいしょ”の達人だった。

 数十年たった今でも、これらのメンバーが集まると、関西で役人をやっている平山君の話題になる。

平山君の巧みな話術は卓越していた。客観的には“よいしょ”なのかもしれないが、平山君のそれは、文字にすると、かなり乱暴だ。ほめていないし、称えてもいないのに、言われたインテリは必ず気分がよかった。

 米田君も関西の出身だが、品がよく、抜群に気が付く後輩だ。

 

どうも、あれから何度か寮でマージャンした小島さんは、楽しくて最近入寮したとのこと。

 まあこれで、小島さんの卒業も何とかなるだろうと、後輩の平山君に託し少し安心した。

 しかし、その後、小生の仕事が忙しくなり、1年くらい皆と会えない時期があった。

そして、次に会った時には、小島さんは8年生になってしまっていた。

久しぶりに寮に行って、平山君に様子を聞くと、小島さんは、一度教務に行って、事情説明をしたものの、教務側もあまり前例がなかったケースだったようで、教授預かりになった。しかし、その後、小島さんが教授に交渉する動きをしていないと言う。

 早速、皆で会って相談した。

小島さんは「もういい」と言う。8年かけての卒業証書に価値がないと言う。散々、みんなで説得しても、頑なだ。

 ここで、説得している人たちは、私も含め全員後輩だということに気が付いた。平山君は役人に、米田君は一流の電気メーカーに就職が内定している。すでに4年生だった。

心配しているOBに説得してもらうべく、働きかけた。しかし、小島さんは顔向けができないと、拒絶した。

 小生の説得がうっとうしくなったのか、その後、寮にも寄り付かなくなり、会えないまま8年が過ぎてしまった。

 それからも、ひょっとしてという思いで、高円寺北口のレインボーを何度か覗いた。

わずか数年で、手打ちのパチンコ台も消滅し、小島さんがいるはずもなかったが・・・

 

 そして、小島さんとは現在も音信不通だ。

 

30年が経過した今でも、学校の近所で年に一回くらい小島さんの子分が10人くらい集まる。平山君は地域的な制約があるので来れないが、米田君や谷山君が招集してくれる。

 この集まりに参集する10名ほどは、学校は一緒だけれど、各々の関係性は希薄だ。学年も違うし、学部も違う、クラブも違う、共通しているのは、2年間の小島さんの寮生活の際、子分だったという人たちだ。

 利害関係がないので続いているのかもしれないが、全員が、小島さんと遊んだ縁だけで知り合った仲間なのだ。

 

子分たちは30年続いているが、そこにこれほど慕われた親分はいない。

 

 

追記

 米田君たちが、年に一回くらい集めてくれる飲み会だが、最近は携帯電話という便利なものがあるので、都合で集まれなかった小島さんの子分に、宴会場から電話する。

 もちろん、平山君にも。電話が通じると、出席者全員に回し、それぞれの人と懐かしそうな話をしている。10分くらいすると、一周した携帯が私に帰ってくる。

 最初、小生が話した時点では、かつての平山節の片鱗を思わせる巧みでウィットに富んでいる。しかし一周して戻ってきた電話の向こうの平山君の声は震えて、明らかに涙をこぼしながらただただ、私に礼をいう。

言葉にはしないが、平山君は青春時代の仲間と久々に喋ったことの礼と、小島さんを卒業させられなかったのは、自分のせいだと言いたいのだ。

 その声を聞きながら、私も込み上げてくる。

 「平山君、無理なことを頼んで悪かったね。本当は私の仕事だったんだよ」そして「小島さんは平山君にすごく感謝してるよ」と心の中で言う。

 

「それじゃ、またな」「がんばれよ」と電話を切る。

皆が私を見て「あんなにいいやつはいなかった」「平山最高」と口々にいう。

 

宴会が終わると、2卓くらい囲んでのマージャン大会だ。

だれかが必ず小島さんの話を始め、口ぶりをまねる。 

爆笑がおこる・・・

 

おしまい


吉祥寺2

2024-04-20 09:34:02 | 移転ー思い出音楽

 先月より、書き始めた小生のブログであるが、第一回投稿前に自分の操作ミスにより、2時間分の小説が消失した。

 そう、実は小説をブログでシリーズ化して、励みにしようという不純な動機だったのだ。

自分の散歩コースで、花とか鳥とか、少しだけデジカメに撮った中にカワセミがいて、これを貼り付けて投稿して自慢してみたいという動機もあった。

 「小説には目標がある」と、最初の稿で書いたが、「よくよく考えるとブログには適さない」と判断した。小説は「ボチボチとワードに綴っていく」と修正したが、「始めてしまったブログの方はどうしよう」と思案し、かつての小生にとって印象深い事件を、記憶のあるうちに書き留めようと考えた。

 事件とおぼしき記憶を思いつくままメモ用紙にリストにしてみると、学生時代だけで、100個以上出てきた。「思い出だらけではないか」と、自分ながら少々びっくり。

友人とのエピソードがやはり一番多く、次はギャンブルネタ、他には学校や自分の所属していたクラブなどなど。

ロケーションとしては、吉祥寺、新宿、府中、国分寺、小金井などだ。(残念ながら赤坂、六本木、青山などはほとんど思いつかない)

 

これは、まったくネタに困ることはない。と、面白かったエピソードを書き始めた。

 ところがである。

 途中まで、書いては消す作業が大半となることに気が付いた。

 このような電子媒体は本来は色々な人に読んでもらうことも目的だが、登場人物が読んだ場合のことも、当然想定されるべきであろう。

 古い話であっても、本人、その家族、友人が読むとなんのエピソードか分かってしまうこともある。そして、万が一迷惑かけることになったら?と思った瞬間にボツになって削除する。

 言葉にして喋ることにはリスクをまったく感じない事でも、書いてしまう事は問題かもということに気付かされた。

 (作家とか記者とかいう職業は大変なんでしょうね)

 今更のことであるが、「そうか、なるほど、そういうことで、自分の日記形式で書く人が多いのか!」と少し納得した。

 

 前置きが長くなった。

 20歳前後の吉祥寺や新宿ネタは山ほどある、ことに気が付いたことはよいが、公開できないエピソードも自分としてはこの際なので記憶を記録ししておきたいという問題をどのように解決するのか?

ワープロに書いて、公開できると判断したものだけを投稿するという手法で始めるべきであったと、後悔している。(所詮、同窓会の昔話ネタではあるけれども・・・)

 吉祥寺2の記事を何度か書き始めたが、以上のような理由で都合4作がボツになった。4作中2作は本人確認さえ取れれば、問題ないと思うのだが・・・このために連絡を取るのは恥ずかしい。(何やってんだ。バカじゃねぇの、って言われそう)

 個人的には、面白いと思えるネタほど、プライバシーがあやしいことに気がついた。プライバシーというものには時効はないのかもしれない・・・

 

そのような訳で、この原稿からワードに書いている。ボツにするかどうかは別として、記録できる。(今更だが、パソコンは便利だ)

 

そして、この原稿を書いているうちに、プライバシーを気にしなくてよさそうな、吉祥寺の思い出を2作、思いついた。芸能ネタも入っており、会心作が期待できる。

 少し表現が難しそうだが、吉祥寺3と4を、いつの日か書いてみたい。

 

おしまい


吉祥寺1

2024-04-20 09:20:43 | 移転ー思い出音楽

哲夫だったのかもしれない。しかし小生の記憶では鉄男だ。

東京に出てきて、学校の寮に住んだ。

400人弱住む寮は主に4人部屋であったが、余裕のある作りで一人分が約6畳ほど。さすが国立大学の寮で、家賃は180円/月と信じられない安さであったが、その家賃を滞納するつわものもいた。

2年に進学して、寮の部屋替えがあった。

引越しが落ち着いたころ、同じクラスの大久保君の部屋に遊びに行った。

「ちょうどいいところに来た」と大久保君。

 いきなり「こいつ、空手日本一なんだ」という指の先に、‘がたい’が立派な兄ちゃんがニヤリとしている。身長は170cmくらいだが、がっちりしている。

 なんでも、昨年の高校空手のチャンピオンだという。

「鉄男っていうんだ」と新入生を紹介してくれた。

 大久保君は鉄男君を可愛がった。遊びに行くときは必ず鉄男がいた。

 

当時は第1次ディスコブームの初期。吉祥寺のインデ(インディペンデントハウス)が盛況で、夜ひまだと、踊りにいった。

 やはり同じクラスの浜本君がプレスリーの大ファンで、派手なことが好きだった。浜本君は一人でいくのは面白くないようで、わざわざアパートを引き払って寮に入り、暇な友達を連れては、インデに通った。

ある日、小生が誘われて浜本君の部屋に夕方いくと、本日のインデ

ご一行様が流行りのディスコミュージックに合わせて踊っている。

 そのころのディスコはゴーゴーバーのなごりもあった時期で、ツイスト音楽も残っていたのだが、ツイストに合わない曲はいくつかのステップを各自が適当に踏んでいた。(サタデーナイトフィーバーはこの2年後だ)

 ところが浜本君の振り付け指導のもと、5~6人がへんてこな同じ踊りをしている。思わず噴出す小生。(この中に、大久保君も鉄男もいた)

「お前もやれよ」と浜本君。

「恥ずかしくないのか?」と小生。

とにかく、全員がそろって、いざインデへ出発。

 

鉄男の話なのに、話がずれてしまった。

脱線ついでに、浜本君の話をもう少しする。

インデで、ホールの先頭に陣取る浜本グループ(小生を除く5~6人)

曲によって違うらしいが、先頭集団が同じステップと同じ振り付け。

「あ~ぁ、はじめちゃったよ」と後方で、他人の振りをして、適当なステップを踏む小生。

 

ところが、曲が進むにつれ、周りで踊っている人たちが浜本グループの真似をし始めるではないか。

 休憩挟んで、2クール目に入ると半分以上の人たちが、浜本グループと一緒にステップして、振り付けも同じだ。

 深夜1時5分の最終電車の中で、浜本君は皆に次回からの振り付けの改善点を熱く語っていた。

 それから、インデが浜本振り付けになるのに、1ヶ月もかからなかった。

 その後、近所のおばちゃんがオーナーやっているビルに入っている歌舞伎町のMugenに行くと、浜本振り付けだ。念のため、ほかのディスコを覗いても歌舞伎町も六本木も浜本振り付けだった。

 この天才的振付師の浜本君は残念ながら、大手流通業で偉くなっている。

 

さて、鉄男の話だ。

大久保君や浜本君に鉄男はよくついていった。

我々は吉祥寺によく行った。

 吉祥寺で飲むのは北口だった。インデもベルモも伽藍堂も映画館もデパートも怪しい飲み屋もだいたい北口だった。

 南口はマルイがあるが、その南側は井の頭公園で、あまり魅力は感じなかった。

 その日はなんで南口だったのだろう。

メンバーは大久保君と私と鉄男の3人だった。

かなり酔っ払っていた。少し離れた焼き鳥屋で飲んだかえりで、南口から中央線に乗るつもりだった。

 前方から、若者の集団がやってきた。大久保君は千鳥足でふらつき集団の一人と軽くぶつかった。「なんだ!」とすごむ相手。どうも先方も酒を飲んでいるようだ。

 「ごめんな~」と小生が謝った。ところが、ひとりが小生の胸ぐらをつかんだ。

相手は10人ほどだが、なぜか一人として、仲裁しそうにない。

 これはまずいことになったと思った。服装などから、その筋の人ではないことは直感したが、人数をたよりに粋がって喧嘩を吹っかけてきたのだろう。

 大久保君も小生も足には自信があったので、酔ってなければ逃げるケースなのだが、大久保君はすでに羽交い絞めされて、3人くらいに押さえられている。

 小生の胸ぐらを掴んでいる相手を柔道初段の払い腰で決めたが、大久保君を置いて逃げるわけにはいかない。

 その時、鉄男の「やぁー!」という気合が聞えた。大久保君を押さえているひとりが、地面に転がった。回し蹴りだった。

「このやろー」と3人が鉄男に挑みかかる。正面の男のアゴに鉄男の前蹴りが炸裂するのをスローモーションのように、小生は見た。相手は2メートルほど後方にあお向けに飛んだ。

 大久保君を羽交い絞めにしていた男は慌てて、逃げようとした。しかし、鉄男の低い回し蹴りに太ももを強打され、うずくまった。

 鉄男は本物だった。このあと、後ろから挑んだ男に裏拳を飛ばし仁王立ちした。

あっという間に4人が転がったのだ。

 残りの男たちは戦意喪失だった。

「おうー!やめよう」という小生の声で、集団は救われた。

つまり、小生は集団に言ったのだが、鉄男は自分が言われたものと思い、大久保君を抱き上げた。

 大久保君も少し見ていたようで、帰りの中央線は鉄男を褒め称えた。

「鉄男、あいつら大丈夫かな?救急車呼ばなくてよかったかな?」という私の問いに、「本気でにゃーずら、大丈夫ずらよ」と静岡弁でしゃーしゃーと答えた。

 その後、下北沢や歌舞伎町や池袋に飲みに行くときには、必ず鉄男に声をかけたのは言うまでもないが、幸い、その後、鉄男が活躍することはなかった。

おしまい