1749年、この年は梅雨が長引き、7月になっても寒気が襲い猪苗代地区は大凶作になった。
農民たちは食料に窮した。
その頃の磐梯山周辺では蕎麦ガエ、蕎麦焼きもち、蕎麦だんご等、3食の内1食は粉食でその他は木の根、草の根を食べ麦飯等はあまり食べられなかった。
飢饉になると餓死する者も続出し幼児の死亡率はかなり高かった。
金曲地区は猪苗代湖畔の志田浜と天神浜の中間にあるで、この地に端を発した農民の不満は猪苗代地方62ケ村に瞬く間に広がり会津藩主に強訴を決して立ち上がった。
猪苗代で上がったのろしは会津全域に広がり、数万人の農民が会津城下に迫った。
年貢半免、労役徴収の反対、郡奉行の罷免を求め手にナタ、鎌、鍬等を握り七日町木戸に押し寄せた。
数万人の農民が一斉に声を上げ、叫びせまり、その内の6百~7百人が木戸に殺到して扉を押し破り押し入ろうとした時、藩兵達が数十丁の鉄砲で一斉に射撃を始めた。
その煙が町内に漂い真っ暗になるほどだったと言う。
農民たちは鉄砲に驚き、逃げ惑い大勢の人が踏み倒されて圧死し、また鉄砲に当たり死んでいった。
農民たちは離散したが、この一揆の問題に藩も真剣に対処し農民たちの要求を受入れ郡奉行の罷免、年貢の減免を約束し一揆を治めた。
しかし、この一揆の首謀者300人を捕らえ死刑10名(刑の執行は火炙り、さらし首の極刑)追放、入牢、叱責280人と言う処分が下された。
※いつも天神浜でウインドをやってるオイラはつい最近その事を知ったのだ。😱😱💀