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【成人期の先輩を訪ねて】水泳に打ち込める毎日です! 大倉晃次さん(40歳)

2015年09月27日 | 取材報告
水泳を始めて30年。2012年の「ダウン症世界水泳選手権大会」では銅メダルに輝きました。仕事も生活も、水泳中心に組み立てています。

(写真:大阪市長居障がい者スポーツセンターで 2014年12月 撮影=リー・サンス)

 仕事は早朝にこなします

ご自宅を訪ねたら、近くまで出てきてくれて「どうぞこちらへ」と丁寧に案内してくれ た大倉さん。

仕事は、月曜から金曜まで、大阪狭山市のゴルフ練習場です。朝6時から12時までの勤務。そうじや軽作業を担当し、毎月7万円から8万円の収入です。

( 写真:勤務先の大阪狭山市のゴルフ練習場で 2014年12月 撮影=住田鉱一)

高校を卒業して、自転車の部品工場に3年間勤務しましたが、会社が倒産。ところが元会社の元部長さんに「同じ仕事がある」と呼んでいただき別の会社に入社。そこで7年ぐらい勤務したものの、そこも中国に仕事を取られて製造中止で退社。1年間作業所に通い、乳業会社に転職。人間関係がしんどかったけど、いろいろ応援もしてもらいました。重い物を運ぶ作業も有り、だんだん腰が悪くなり退職しました。いまの職場は、働き始めて1年になります。午前の仕事を終えたら、日中は腹筋、背筋、腕立て伏せなどの30分のトレーニング。火・木・土曜は長居やファインプラザのプールで練習です。

国内外の水泳大会でメダル

兄(2歳上)と弟(3歳下)の三人兄弟で育った晃次さん。小学校3年の時、弟が幼稚園のときに水泳についていったら、コーチから「いっしょにみますよ」と誘われたのがきっかけ。最初は泣いてばかりだったといいます。父・集次さんは、「とてもできるとは思ってなかった」。

( 写真:たくさんのメダルに囲まれ、父・集次さん、母・幸代さんと堺市南区の自宅で 2014年12月 撮影=住田鉱一)

よくかぜを引いていた体も丈夫になり「兄弟がインフルエンザになっても、この子はひかないんです」と、母・幸代さん。

いいコーチについたことと、一緒に通うダウン症の友人に恵まれたことで、高校卒業ぐらいから水泳も上達。27歳で、全国障害者スポーツ大会高知大会(2002年)に出場。そして34歳で、世界ダウン症水泳連盟(本部・イギリス)が2年に一度開催する「ダウン症世界水泳選手権大会」ポルトガル大会(2008年)に、そして2年後台湾大会(2010年)に出場。2012年11月のイタリアのロアーノ大会では、大倉さんは男子トリソミー21の部の400mメドレーリレーで日本初の銅メダルに。さらに35歳以上の200m背泳ぎと100m背泳ぎで世界記録をマークし、表彰されました。

2014年のメキシコ大会は日本が選手団を派遣せず、大倉さんも出場がかなわず悔しい思いをしました。でも、同年の全国障害者スポーツ大会(長崎)には、堺市代表として壮年の背泳ぎ部門で出場。

「3歳ぐらいまでしか生きられないと聞いて絶望したこともありましたが、これだけの力が、育てればあるんだなと思っております」と父・集次さん(73)。メダルを前に母・幸代さん(71)もにっこりです。

( 写真:第2回ダウン症世界水泳選手権大会ポルトガル大会で、競い合った仲間と。 2008年11月 家族提供)


ピンチを乗り越え 世界選手権で仲間もできた

「これまでに、体力や気力が落ちることはありませんでした」と母・幸代さん。でも、世界選手権バタフライで活躍する大倉さんが、過去に一度だけ選手生命のピンチに。腰の背骨の一番下の部分がずれてしまったのです。台湾大会(2010年)のあと関西医大の整形外科で手術。1年ほどは水泳を離れ、ストックを支えにリハビリに励みました。その後は、バタフライをひかえ、背泳ぎ、クロール中心に切り換え、みごとイタリア大会にカムバック! いまでは腰にチタンのボルトを入れたまま、世界のプールで活躍しています。

(写真:ダウン症世界水泳選手権大会イタリア大会の400mメドレーリレー決勝の銅メダルを胸に。(2012年12月 長居障がい者スポーツセンターで  撮影=住田鉱一)

《プロフィール》1974年(昭和49年)11月富田林生まれ。私立葛城保育園、富田林市立伏山台幼稚園、同市立寺池台小学校を経て、大阪府立堺養護学校中学部、高等部卒。自転車部品工場、乳業会社を経て、現在ゴルフ練習場勤務。

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記事=住田鉱一(JDS大阪支部 『ダウン症ニュースWeb』編集部)



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