茨城に代わって「人気度ワースト県」になった栃木県。
東照宮や中禅寺湖の日光という観光地を持つが、確かに
それ以外で有名なのは、県都宇都宮の餃子くらいか。
個人的には那須連山の裾野に広がる「那須高原」が雄大
でいいと思うのだが、距離的にも共に御用邸があることで
一緒の軽井沢に比べると知名度と人気は今市(イマイチ)。
「牛乳生産高が北海道に次ぐ全国2位の那須高原は、
140年前は人の住めない原野であった・・・。」
何故か捨て忘れた半年も前のJRの冊子をパラパラと
捲ると栃木県特集、その「那須開拓物語」から。
草もいまだ長からず。水といふものは。
木というものは。木瓜さえもなし。
炎暑の折など如何にぞや。
手して掬う水もなし。
江戸時代の俳人が旅の記録に書いているように「水」が
なかった。扇状地である那須高原の中心は土砂や火山岩が
厚く堆積するため伏流水になってしまうからである。
ここに明治政府が目を付けて「那須疎水」を通す。一年
で幹線の16.5キロを完成、その後の分水、支線の総延長距離
は約100キロにもなった。
疎水の完成、その後の東北本線全線開通で「那須野が原」
の開拓が本格化した。その担い手は「華族」たち。莫大な
私財を投じて、西洋風の大規模な農場を作り、牧畜、植林
を試みたのである。
松方正義、大山巌、西郷従道、青島周藏、三島通庸・・・、
皆、明治政府の「明治の元勲」である。そして彼らは皆、
渡欧していて、欧州貴族の優雅な暮らしを支える荘園経営
に憧れたのである。
ワインが醸造され、バターも作られた。那須野が原には
洋風文化が花咲いたのである。時代の波で廃れたが彼らの
豪奢な別荘は今も残る。
学生時代の友人たちは、この那須高原の端の小さな湖の
畔に年に一度一泊でゴルフに集う。ゴルフは不調法の私は
一度だけ前夜の宴会に出席した。
もちろん最寄り駅からのウォーキングとしたが、最後は
きつい坂の連続。汗を流した風呂上がりのビールの旨さは
格別であった。
ゴルフ場の中にある宿からの風景を紹介しよう。噴煙を
上げるのは茶臼岳である。